暗がりのなか、つゆりはそっと瞼を持ち上げた。やけに重たい身体を無理やり起こす。ずいぶんと深く眠っていたらしく、ずきりと頭が痛んだ。
 いままで自分が眠っていた床に手のひらを滑らせれば畳の目がわかった。窓はついておらず、妙な圧迫感だけがのしかかる。部屋もそれほど広くはない。座敷牢、といった感じだ。とにかく、ここが自分に宛てられていたはずの客間ではないということだけは明白だった。
 どうしてこんなところにいるのか、ここに来る前のことをつゆりは思い出せない。記憶を遡れど、やはり頭が痛むだけだった。

 考えることを放棄してしばらくたった頃、つゆりの目の前に突然なにかが現れた。いや、もしくは最初からいたのかもしれない。ともかく、闇よりも深い漆黒が色濃く造型をかたどっていた。つゆりの目では辛うじて人であることが見てとれる。
「……あ、あの、」
「…………」
「ここ、どこ、ですか」
「…………」
 意を決して恐る恐る問うも、しかしその誰かは質問に答えようとしない。しばしの沈黙ののち、さすがに不気味になってきたつゆりは少しあとずさり距離をとった。
 すると、がちゃりという鍵の開く音のあと、奥の暗がりからもうひとり、わずかな炎の明かりとともに部屋に入ってきた。かちゃりかちゃりとその人が一歩近づくたびに金属の擦れる音が響く。鎧を着ているのだ。
「下がれ」
 低く、冷たい声が命令を下す。一瞬、つゆりはそれが自分に向けられたものかとも思ったが、どうやら違ったらしい。先ほどまでまるで監視するかの如くつゆりの前に佇んでいた漆黒がうしろへ控えるように下がったからだ。
「貴様か、忌々しき雨師は」
 行灯が向けられた。揺れる明かりはつゆりと、そしていまことばを発したその本人を照らし出した。声に違わぬ冷酷な瞳につゆりは息を呑む。
「う、し……?」
「雨をつかさどる神、なのであろう」
 感情の見えない瞳に見下げられ、身体が竦む。
「あ、の、」
 ここはどこか、と云いかけて、しかしつゆりはすぐに、ひゅっと短く空気を吸い込んだ。喉に、なにかが宛てられたのだ。恐る恐る視線を落とせば、こころもとない行灯の明かりだけでもわかるくらいの、大きな刃。
「無駄口を利くでないわ。貴様はただ、我の命を聴けばよい」
 男は淡々と云った。嫌な汗がつゆりの首筋を伝う。なんて、横暴なのか。けれど、首にひかる刃のせいで、反論もできなければ、うなずいて意思表示をすることもできない。
「早々に雨を止ませよ」
 そうして下された『命』に、つゆりはわずかに瞠目した。もしかして自分はこのためだけにここへ連れてこられたのだろうか。それも、ほとんど誘拐のようなかたちで。
「……それだけ、ですか」
 喉が震えていることも忘れて、つゆりは思わずぽつりと零した。
「左様。もう幾日雨続きだと思うておる。莫迦のひとつ覚えのように雨ばかり降らしおって、日輪が一時も拝めぬではないか」
 心底、辟易とした口調だった。
 つゆりは人知れず、つきりと胸を痛める。誰かが雨を喜ぶ傍らで、やはり疎むひともいるのだと。自分は結局、この目に届くところまでの幸福しか考えられていなかったのだ。それがあたかも、すべてのひとの想いだとでも云うように。
 しかし、こればかりはつゆりにもどうすることもできない。内心困り果て、また悄然としながらも、正直に話すために口を開く。
「わ、私には、雨を止ます力はありません」
「なに……?」
「降らすことはできても、熄ますことは、できないんです」
「たわけが」
 ぐっ、と喉もとに突き付けられていた刃がつゆりの顎を押し上げた。ひやりとした金属の冷たさを嫌でも脈打つ血管に感じさせられる。下手に動けば容易に斬れてしまうだろう。
「なれば、貴様をここで殺すか」
 さすれば鬱陶しい雨も熄むであろう、と男はさらにつゆりの首にその刃を押し付けた。
「ご、めん、なさ……っ」
「神と云うからにはどれほど手厚く守られているのかと思えば、警備は手薄。数日見張りを送ったのみですぐに勝手がわかったが、その所以が知れたわ」
 所詮、その程度の駒であるということなのであろうな、と冷ややかに視線を落とす。
「しかし、利用する価値がないというわけでもあるまい」
「……」
「貴様、武田からひどく寵愛されているそうではないか」
 どくりとつゆりの心臓が嫌な音をたてた。その云い様があまりにもこれから並べ立てられるであろう黒々しいことばのための前置きにしか聴こえなかったのだ。つゆりに、武田にとって、よくないことをこの男は考えている。
「加えていま、武田と伊達があの長曾我部と手を結ばんとしていると聴く……実に厄介ぞ」
 男はつゆりに一瞥を寄越すと、貴様はその取り引き名目なのであろう、とほぼ確信的にそう云い放った。
「四国もこの中国同様、幾月も雨に見舞われていなかったのだ。我には願ってもみなかったことではあるが」
 つゆりはそのことばにはっとした。中国同様、ということは、いま、ここは中国だというのだろうか。そして思い浮かぶのは、長曾我部元親が零していた『伊達・武田と簡単には締結できない理由』だった。それならば、この男がどうして今回のことをこんなにも気にかけているのか納得できる。
「もしか、して、あなたが、毛利、元就さん……ですか」
 自信はない。しかし、問わずにはいられなかった。左胸の奥では心臓をばくばくと鳴らしながらも、つゆりはまっすぐ男の凍てつく瞳を見据えた。すると意外にも、ぴくりとその眉が動いたのだ。
「いささか、喋々しすぎたか……」
「え、あ、」
「まあ、よい。ただの小娘に隠す由もなかろう……我がこの安芸を治める毛利元就ぞ」
 面倒臭げに、あるいは潔くそう名乗った元就は、一体この娘をどうしてやるかとふたたび思い巡らしているようだった。つゆり自身が思っている以上に、つゆりには影響力があると元就は考えていた。とくに、武田においては。
「貴様と引き換えなれば、武田は多少の無理な要求にも応じるであろう」
「や、めて、ください」
「そうだな……いますぐ長曾我部との締結を取り止めさせ、長曾我部には毛利に降伏してもらうもよい」
 長曾我部が応じぬときは、武田がやつに攻め込むであろう。
 そう、ひどく残酷なことを元就はなんとも思っていない風に云ってのけた。いや実際、本当になんとも思ってはいないのだ。つゆりは全身の血が冷えていくのを感じた。自分が利用される分には一向に構わなかったけれど、武田軍やお世話になった元親、さらには伊達軍にまで迷惑がかかるのだ。
 そんなことは、赦せない。赦さない。
 自分という存在が大切なひとたちの足枷になるならば、いっそ。
「……殺してください」
 ほとんど睨むように、つゆりは元就を見上げた。これ以上足手まといになるような自分ならば要らない。誰かを不幸にしてしまう自分など。躊躇いもなく、死を選べる。
「ほう、死を乞うか」
「武田軍にとって、私は、ただの厄介者です」
 つゆりは狭まる喉を叱咤して、震える唇でなんとかことばを紡いだ。なんとしても、今回の織田攻めに支障が出ることは避けなければ。哀しみや苦しみよりもそのことがつゆりの頭にはひしめいていた。
 ここまで積み上げてきたものを、この手で壊すことなどできない。考えたくもない。
「私を人質にとっても、意味なんて、」
「それは我が決めることぞ」
 しかし、元就はわけもなく一蹴する。そしてさらにつゆりの胸をえぐるようなことばを鋭い矢のごとく浴びせるのだ。
「せいぜい思い知るがよい。己がいかに無力で、害悪な存在であるかを」
 つゆりのことばには耳も貸さず、元就は部屋の隅のほうへと歩み寄った。いままで気がつかなかったが、なにやら壺のようなものが置いてある。元就は行灯からそれに火を移した。
 それから少しして、煙にのってだんだんと甘い香りが漂い始めた。嗅ぎ覚えのあるそれにつゆりは思わず呼吸を停める。睡眠香だ。
「ふむ……効き目は充分であったようだな」
 つゆりの反応を見て、元就はしかしとくに興味もなさげにうなずく。それから、しばらく眠っているがよい、と云い捨て部屋を出ていった。

 霞む意識のなか、つゆりは助けを乞うように視線を上げる。つゆりの目には依然として佇んでいる漆黒がしっかりと映った。また、つゆりを見下げる彼、風魔小太郎の目にもつゆりの仄暗い瞳がたしかにうかがえていた。
「私、を、幸村さんのところに、帰して、くれませんか」
 自分が迷惑な存在にしかなり得ないことを知っていてもなお、つゆりは最後の望みにすがらずにはいられなかった。そんな自分自身を疎みながらも、もう一度だけ逢いたいと思えるひとがいるのだ。
 しかし、小太郎はなにも云わずつゆりに近づくと、目線を合わせるようにしゃがみ、それからふるふると首を横に振った。
「……なら、ころして、くれません、か」
 一縷の望みも絶ち切った、その哀願にも小太郎は否定を示した。それからつゆりの唇にそっと自らの人差し指を押し当てる。それはとてもつゆりを捕らえた者の行動とは思えないほどにやさしく、やわらかだ。
 つゆりは諦めて口をつぐむと、睡魔に身を任せて瞼を閉じた。

 小太郎はつゆりが完全に眠りに沈んだことを確認すると、今度は屋根裏に潜み、監視を続ける。次に目が覚めたとき、つゆりが自ら死に手を伸ばそうとしないように。




曇り霞と日輪と

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