四国に到着してからののち、一日休息をもらったあとは連日軍議が続いていた。今日とて例外ではなく、夜が更けるまで話し合いは長引く。元親は伊達・武田への加勢を快く受け入れてくれたが、ひとつ、残す問題は大きい。
「中国の毛利と停戦しねえことには迂闊にここを空けられねえ」
 このことだった。毛利元就と元親はもうずっと長い間お互いの領地をめぐって対立している。元親曰く、織田との戦から帰ってきたら国が壊滅状態になっていた、ということにもなりかねないというのだ。
「だが、あの奴さんがおとなしく手を結ぶとも思えねえ」
「むう……。しかし、安芸の安寧を第一とする毛利殿とて織田の手がこちらまで伸びることは避けたいのでは」
 幸村が難しげに眉を寄せた。どうしても自分は元親を説得せねばならない。その責任感だけが幸村の胸に重くのしかかっているのだ。
「そこを持ち出して交渉するしかねえ、か」
「いくら知将と謳われる毛利殿でもあの織田軍を自軍のみで迎え撃つのは無謀と思いまする」
「奴さんもそのくらいはわきまえているだろうだしな……」
 苦々しげに吐き出すと、元親は膝を叩いて立ち上がった。
「まあ、いい。なかなか判断がつかなくてわりぃが、今日はもう休んでくれ」
「む、こちらこそ、かたじけのうござる。容易な問題ではないことは重々承知の上。時間の赦す限りお考えになって最善の策をとって下され」
「ああ」
 元親が部屋から出ていく。幸村はその背中を見送りつつも深く嘆息した。なかなか、事は思うように運んではくれない。
「旦那、そんなに落ち込まないでよ」
 ずっと傍らで話を聴いていた佐助が眉を下げてそう云った。
「鬼の旦那だって一応は前向きに考えてくれているわけだし、心配することないと思うよ」
「うむ……」
「旦那?」
 幸村とて、この話が水に流されるなどとは思っていない。ほぼ確信していると云ってもよかった。毛利元就のことさえどうにかできれば、すべてが丸く収まるはずだ。
 思い悩む原因はもうひとつ、まったく別のところにあった。他でもない、つゆりのことだ。四国へ到着してから数日、彼女とはほとんど口を利いていない。それどころか、目さえ合わないのだ。
「ちょっと、どうしちゃったのさ。旦那らしくない」
 だんまりを決め込んだ幸村に、佐助が声をかける。しかし、つゆりのことで悩んでいるなどと軟弱なこと、云えるはずがないではないか。
「なんでも、ないのだ、佐助」
「そう?」
 怪訝そうな声で佐助が問うも、幸村はうなずくのみだった。そんな主の様子に釈然としない佐助は、しばらく考えたのち、あのさ、と切り出す。
「旦那が女の子に対して鈍感なのなんて今さらだろ」
「なっ……!」
「そもそもどこに女の子の口に指突っ込む男がいるのさ」
 呆れたような佐助の口調に、幸村はことばを詰まらせた。つゆりが悩みの種であると気付かれていたこともそうだが、まさかあの瞬間を見られていたとは思いもよらなかったのだ。
「み、み、見ておったのか」
「見てたよ。あれは顔合わせづらくもなるって」
「や、やはりあれが原因であったか……」
「いや、むしろあれ以外になにがあるわけ?」
 佐助がすかさず突っ込む。幸村には反論の余地もなかった。わかってはいた。わかってはいたのだが、
「俺は、どうすればよいのだ」
 それを解決するための方法がわからないのだ。
「それは旦那が自分で考えなよ」
「し、しかし、」
「もう。旦那がそんなんじゃ、俺様がつゆりちゃん貰っちゃおうかなあ」
 どっちにしろ、あんな身分じゃ旦那のお嫁さんにはなれないもんね?
 にたりと底意地の悪い笑みを浮かべて佐助は立ち上がった。幸村はといえば石のように固まったまま動かない。これは少し、効きすぎたか。
「まあ、もう夜も遅いことだし、早く寝て明日に備えてよね」
 とくに弁解もしないまま佐助は姿を消してしまった。取り残された幸村はただただ茫然と、先ほどの佐助のことばを反芻していた。

 当のつゆりは時間を持て余していた。幸村たちが軍議のあいだは部屋にいることが多いが、やはり何日もそれが続くと時間を塗りつぶす術も減ってくる。
 星のない空にため息をついた。
 縁側に出て夜空を見上げるのはこの世界に来てからつゆりの日課となっている。夜にすることと云えばこれくらいなもので、あとは眠るだけだ。
 つゆりも悩んでいないわけではなかった。いきなりあんな態度をとってしまったから、どういうきっかけでまた普通に幸村と接すればいいのか、完全に機会を見失ってしまっていたのだ。
 それでも、船でのことを思い出すたび羞恥にかられるし、どうしようもなく情けなくなる。そしてまた幸村にまともに顔を合わせることもできないと思うと、とにかく憂鬱になるのだった。
「なんだ、湿気た面しやがって」
 いまはもうすっかり聴き慣れた声が雨の合間を縫ってつゆりの耳に届いた。
「長曾我部さん……軍議、お疲れさまです」
 庭から上がってきた元親に静かに声をかける。これは、ここに来てから日課となっていることだ。
 元親は軍議が終わると必ずつゆりのもとへ訪れる。最初、元親は考えごとに耽りながら歩いていただけで、つゆりに宛てられた客間の庭を通ったのも、その際につゆりが外へ出ていたことも、偶然だった。それが毎日になって、ここ数日は意図的にずっとそうしている。
 気さくに話しかけてくる元親にはじめこそつゆりは戸惑ったが、いまでは少しずつ打ち解けてきていた。
「つゆり、あんた、日に日に表情が暗くなってやしねえか?」
「……長曾我部さんこそ、難しい顔、してます」
「そうか……? 戦は難しいからな」
 云って、ふたりそろってため息を零した。幸せが逃げてしまうとかいうけれど、こればかりは無意識で、気づけば口から抜け出てしまう。
 ふたりはお互いに悩みを相談するわけでもなかったが、つゆりは元親が、元親はつゆりがなにかを抱えていることはわかっていた。
 けれどつゆりはそれに触れないし、元親も触れてはこない。ただ他愛ない話をして、それほど長居することもなく元親がまたこの庭から散歩の続きを再開する。それだけだった。
「執務とか政とかよ、俺には向いてねえ。肩がこるぜ」
「でも、一応は殿様なんですよね……?」
「まあなあ」
 軍議続きで城に籠っていることに元親はそろそろ嫌気が差しているらしい。
「明日は久々に漁にでも出るかな」
「漁……ですか」
「ひとつでっけえやつ釣り上げてよ、気分を晴らすってわけよ」
 でっけえやつ、と元親が両腕を広げる。
「つゆりも行くか?」
「……いいんですか?」
「あー、でも船酔いするから駄目だな」
 からかうように笑って元親は再び庭へと降りた。今日はもう戻るらしい。
「大丈夫ってんなら、連れていってやるが」
「たぶん、大丈夫、です」
 近江から土佐までの距離であれだけ酔ったのだ。はっきりとは云いきれず、つゆりは曖昧な返事を返す。
「はっは、不安だな。つゆりがいたらもっぱら雨だろうが、荒波の漁もいいもんだぜ」
「そう、ですかね……」
「ああ。揺れるけどな」
 意地悪くそう云って、元親はつゆりの頭にぽんと手を乗せた。
「じゃあな、おやすみ」
「おやすみなさい」
「早く悩みが晴れることを祈ってるぜ」
「……長曾我部さんも」
 暗い雨のなか、溶け込んでいく背中にそう返して、つゆりもそろそろ眠ろうと立ち上がる。明日は漁に連れていってくれるそうだから、あまり夜更かししていては船酔いの原因になるだろう。もうあんな思いは懲り懲りだ。

 ふわりとあくびを漏らしながら障子戸を閉めようと手をかけたとき、何者かにそれを阻止された。なんの前触れもないそれにつゆりは思わず肩を跳ねさせる。
「さ、佐助さん……?」
「…………」
 暗闇のなか、視覚は充分ではない。呼びかけてみるも返事はなく、変わりに布で鼻と口を塞がれた。苦しくも必死に呼吸をすれば、なにやら甘い匂いを肺いっぱいに吸い込んでしまった。
 なにが起こっているのかわからなかったが、ただ背後にいるのは佐助ではないということだけは理解できた。明らかにおかしいとつゆりが気づいたときには、その自我とは無関係に意識は下へ下へと堕ちていく。
 相変わらず雲は厚く、月のひかりが一筋たりとも届かない夜だった。




ぬばたまの闇に

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