「旦那!」
 馬で森を駆け抜ける傍らに黒い影が降り立った。ずいぶんと久しぶりに聴いたテノールは、驚くほど自然につゆりの耳へと滑り込んできて、つゆりは思わず、佐助さん、とその名前を呟く。本当に小さな声だったにも関わらずその音を拾った佐助は、とてつもない速度で駆けながらもへらりと笑ってくれた。
「つゆりちゃんも、元気だった?」
「元気です。……佐助さんは、疲れていませんか?」
「俺様? 疲れてる暇すらないぜ」
 冗談とも本気ともつかない口調でそう云って、佐助は幸村に視線を移す。なにかあったのか、と幸村が訊いた。
「それが、鬼の旦那が自国まで船を出してくれるってさ」
「なんと、まことか」
「うん。このまま南下して紀伊に向かってほしい」
「あいわかった。急ぎ参ろう」
 幸村は馬の腹を蹴るとその速度をあげる。ああ、そうか。四国に行くには海を渡らなければならないのか、だなんて、つゆりはいまの会話で初めて気づく。
 この世界の海をまだ、つゆりは見たことがない。甲斐は内陸であるし、大阪も然り。越後は日本海側、奥州は大平洋側だけれど、どちらも海まで出ることはなかったから。
「あの、佐助さん」
「ん?」
「『鬼の旦那』って、」
「長曾我部元親。四国を治める鬼神、本人のことさ」
 とんだ荒くれ者でね、と薄く笑みを浮かべながら佐助は答えた。

 この時代の「船」というと、つゆりの頭には木製の小舟が浮かんでいたのだけれど、紀伊に到着後しばらくして実際に目の前に現れたのは、そんなものとは比べものにならないほどの大きな要塞だった。戦闘向けに設計されているのか、巨大な大砲が前面にひとつ。側面には細めの砲がずらりと一列に並んでいる。
 その、大きな大きな船から、これまた大柄な男が降りてきた。この人が鬼神、長曾我部元親か。つゆりはすぐにそう直感した。
「あんたが真田幸村だな」
 に、と白い歯を見せながら、潮に焼けた声で確かめるように彼が云った。幸村は力強くうなずく。
「左様。某が甲斐、武田の真田源二郎幸村にござる。此度は――」
「まあまあ、難しい話はあとだ。俺は長曾我部元親、よろしくな」
「よろしくお願いお頼み申す」
「そっちの嬢ちゃんも」
「あっ、よ、よろしくお願いします」
 つゆりは慌てて頭を下げた。圧倒されることばかりで思わず唖然としてしまっていたのだ。焦っているのが丸わかりだったのか、元親はおかしそうにククと笑った。
「そこの忍は、ずいぶんと世話になったな」
「まあね、こちらこそ」
「さあ、乗りな。要塞・富嶽だ」
 例の大船につゆりたちを促す。鬼神、だなんて云うからどんな恐ろしい人なのかと思ったけれど、存外、気さくでいい人のようだった。元親はつゆりたちが乗り込んだことを確認すると、
「野郎共、舵をとれ!」
 楽しげに声を張り上げた。

 潮の濃い香りが心地いい風に乗って運ばれてくる。鮮やかだった海の青は、空が曇るにつれてその色をくすませていった。きっともうじき、雨が降る。
 船は思っていたよりも揺れた。慣れないそれと緊張も相まって、次第につゆりは腹の奥のほうがもやもやと気持ち悪くなってくるのを感じた。これが船酔いか。呼吸を意識的に深く繰り返しながら、いままで経験のなかったことに顔をしかめた。
「つゆり殿? もしや、気分が悪うござるか」
 隣にいた幸村が心配そうに覗き込んでくる。気付かれてしまった。
「あ、だ、だいじょうぶ、です」
「なれど、お顔がまっ青にござれば」
「そう、ですかね」
「うむ。無理はなさらぬほうがよい」
 云って、幸村は労るようにつゆりの背をさする。それから続けざまに、長曾我部殿! と声を上げた。富嶽の先頭に立って風を浴びていた元親が、その呼び掛けに気づいてこちらへと向かって来た。
「どうした?」
「つゆり殿のご気分が優れぬようなのだが」
「つゆり……?」
「雨神殿にござる」
「あんた、つゆりってーのか」
 海の色をした瞳がつゆりを映す。どうやら名乗るのを忘れていたらしい。けれど、失礼は承知ながらもつゆりはうなずくので精一杯だった。
「酔ったんだな。吐いちまったほうが楽になるが、」
 そのことばに慌てて首を横に振った。人前でなんて吐きたくはない。
「まあ、こればかりは慣れだからな……。辛いなら横になっていていいからよ。もうちっとの辛抱だ」
 いま水を持ってきてやる、と残して元親は船の中へと入っていった。幸村はつゆりの丸まった背中をなおもさすり続けてくれている。とてもやさしい手つきで。
「やはり、戻してしまってはいかがか。長曾我部殿の仰っていたとおり、そのほうが楽になるやもしれぬ」
「……へいき、です」
「あまりそのようには見えぬが……」
 困ったように眉を下げて、うかがい見るように目線を合わせられた。もう一度、つゆりは首を横に振る。頭がくらくらした。
「……つゆり殿、」
 ひとつ呼吸を置いて、幸村が短く零す。
「失礼致す」
 有無を云わせず後頭部を固定されたかと思えば、あろうことか幸村はその指二本をつゆりの口内にねじ込んだ。瞬間、つゆりはなにが起こったのか理解できず、ただされるがままになってしまう。容赦なく舌の根本を蹂躙され、込み上げてきた嘔吐感に慌ててつゆりはその腕を掴み引き剥がした。急いでそのまま船縁に駆け寄って、船の外に嘔吐する。曇り空を映す海が生理的な涙で滲んだ。胃液で喉がひりひりと焼けるようだ。
「……なんてこと、するんですか」
 顔を上げられないまま、つゆりは掠れた声で近くに寄って来た幸村に投げかける。ああ、最悪だ。胸のうちで小さく毒づいた。
「申し訳ござらぬ……しかし、見ていられなかったゆえ」
 つゆりの責めるような口調に、沈んだ声が返ってきた。つゆりは口もとを乱暴に手の甲で拭って、胸ポケットから懐紙を取り出すと、幸村の人差し指と中指にあてた。じわりと生暖かく湿っていくそれに、羞恥でどうにかなりそうだった。
「水持ってきたぜ……って、なにやってんだ?」
 これまた、絶妙なタイミングで元親が戻ってきた。怪我でもしたか? と不思議そうに首を傾げながらもつゆりに湯呑みを差し出す。
「……ありがとうございます」
「いや。それより、さっきよりもちっとばかし顔色が良くなったんじゃねえか」
 たしかに、気分は少しよくなっていた。
「……あの、このお水、手を清めるのに使っても、いいですか」
「手? 構わねえが……」
「ごめんなさい」
 つゆり殿、と幸村が遠慮がちに制止したけれど、つゆりは構わず湯呑みを傾けて彼の手に半分ほどの水を流す。それを懐紙で綺麗に拭った。自分のせいで指が汚れてしまった事実は変わらないが、それでも少しだけ気持ちが落ち着いた。
「私、口漱いできます」
 ひと言そう断ってから、湯呑みを持ったまま逃げるようにつゆりはふたりから離れた。恥ずかしくて情けなくて、つゆりは幸村の顔を見ることができないままだ。感じ悪かったかもしれないと反省するものの、そればかりはどうしようもなかった。

 船縁にもたれ掛かり、足を投げ出して座り込んだ。空になった湯呑みを弄びながら、ぼんやりと天を仰ぐ。漱いですっきりとした口のなかとは裏腹に、もやもやとした気分がつゆりの胸中にわだかまっていた。
 幸村には悪気がないどころか、自分のためにやってくれたことだというのに。自分のこころの狭さというか、妙な意地に辟易とする。けれど、あんなところ、幸村に見られたくはなかった。
「つゆり」
 ふいに、視界に影が差した。見上げるとわずかな光陽を遮って元親が目の前に立っていた。
「もうすぐ着く、降りる準備をしな」
「あ……はい」
「あんまり真田を避けてやるなよ。落ち込んでるぜ」
 眉を下げて仕方なさそうに軽く笑うと、大きな手を差し出してくれる。拒む理由もないので、つゆりも素直に手を取り立ち上がった。ありがとうございました、と湯呑みを返す。否、返そうとしたのだが、どこからともなく飛んできた鮮やかな鳥が鋭い爪の光る足でさらっていってしまった。
「あっ、」
「心配ねえ。あれは俺のだ」
「そうなんですか」
 オタカラ、オタカラと頭上からは声が落ちてくる。見上げれば螺旋を描きながら明るい色の羽根を羽ばたかせていた。鸚鵡だろうか。とても綺麗にことばを発音する。
 すると突然、弾かれるように大きく船が揺れた。思わずよろめいて、反射的に元親の腕を掴んでしまう。僅かに見開かれた目と合った視線に、急いで手を離す。
「ご、ごめんなさいっ」
「いいや、いいってことよ」
 危なかったな、と口の端を上げると、元親はつゆりの頭に軽く手のひらを落とした。
「さて、着いたぜ」
 いまの振動はどうやら船が停止する際のものだったらしい。乗員数人の手によって大きな橋が陸へと下ろされる。降りるぜ、と足を向けた元親の後ろから、つゆりはその橋を渡って柔らかな砂浜へと足を着けた。
 そして、広がる光景に目を瞠る。
 岩とぶつかり弾ける白波。その岩壁を覆うように囲む深い木立。潮の香りにさざめく涼やかな風。それから、足もとに広がった細かに煌めく砂塵。曇り空が勿体なく思うほど、美しい景色だった。
「ようこそ、鬼の住む島へ」
 あとから続いてきた幸村と佐助、そしてつゆりに向かって元親がそう云い放った。




鬼ヶ島に潜む鬼

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