つゆりはゆるりとその瞼を持ち上げた。辺りはまだ、淡い闇に包まれている。目を覚ましたというよりは、上手に眠ることができなくて浅い眠りをずっと繰り返していたようだ。けれど、それは今までのような不快なものでは決してなかった。
 むしろ、浮かれていた、とさえ思う。
 祭りの余韻と、枕元に横たえた簪。熟れた果実を彷彿とさせる甘やかな赤は、手にとれば濡れるような艶が滑らかに馴染んだ。小さな花の装飾と、ところどころに鏤められた金蒔絵はどこまでも上品で美しい。
 幸村は、これがつゆりに似合う、と云ってくれた。たしかに彼は正直で、お世辞なんてきっと口にしない。それでも、やっぱりこれは自分にはとても勿体ないもののように思えた。思うのだけど、幸村の気持ちが嬉しかったのもまた事実だ。自分の云ったありがとうに返してくれた幸村の柔らかな笑みが、気恥ずかしいのと同時になぜかつゆりの胸をひどく締めつけた。

 部屋に干していた制服に早々と袖を通す。髪を櫛で撫で付けて、寝癖を落ち着かせる。本当は貰った簪を使えたらよかったのだけれど、初めて手にしたそれを上手に扱うことができず、結局、制服のスカーフを通してある部分に差し込むことにした。
 空が白み始めた頃、顔を洗うために井戸の場所を探そうと部屋を出る。すると、後ろから追いかけるように呼びかけられた。
「まあ、つゆり殿。おはようございまする」
 驚きを含んだ高い声。まつだった。朝餉の準備に行くところなのか、洗ったばかりなのであろう野菜たちをごろごろと大きな桶に入れて抱えていた。
「おはようございます。あの、井戸……使っても、いいですか」
「もちろんにござりまする。案内致しましょうか」
「あ、お願い、します」
「その前にこれを廚に置いてきますゆえ、少々お待ちになって下さりませ」
 軽く頭を下げて足早に廚へ向かおうとするまつを、つゆりは慌てて、待って下さい、と引き留めた。どうなされました? とまつは首を傾げる。
「あっあの、顔、洗ったら、私にも朝餉の準備、手伝わせて下さい」
 一瞬、目を丸くしたまつは、けれどすぐににっこりと人好きのする笑顔を浮かべた。
「なんと、嬉しゅうござりまする」

 井戸で顔を洗ったあと、まつといっしょに廚へ向かう。ふと、まつの視線がつゆりの胸元あたりに留まった。
「あら、素敵な簪にございますね」
「あ、これは、幸村さんが」
「まあ! 髪にお付けになったらよろしゅうございますのに」
「そ、その、使い方、よくわからなくて」
 この時代のひとからしたらできて当たり前のことだろうそれに、つゆりは恥ずかしくなって思わず目線を下げる。すると、まつは嬉しそうにパンッとひとつ手を鳴らした。
「なれば、まつめに結わさせて下さりませ!」
 あっ、と思う間もなく廚へと向かう廊下を引き戻される。そのままつゆりが連れ込まれたのはまつの私室のようだった。
「さ、お座り遊ばせ」
 小さな小物入れから櫛を取り出すと、まつが座蒲団を敷いた。
「え、あ、あの、」
「ご遠慮なさらず」
 その押しの強さに負けて、つゆりは差し出された手に簪を手渡してから座蒲団の上に正座をする。背後に腰を下ろしたまつが、ゆっくりとつゆりの髪を梳かし始めた。
「うちには男ばかりしかおりませぬゆえ、なかなかこうしておなごに手を焼くことができぬのでござりますよ」
 紡がれたことばはとても楽しげで、男女問わず世話を焼くのが好きなのだろうことがうかがえる。喩えるなら、息子ばかりをもつ母親が、娘をもつご近所の奥さんに「やっぱり女の子はいいわね」なんて話しているような感じだった。
 けれど、つゆりから見たまつは母と云うよりは姉だ。歳の離れた姉がいたらこんな感覚なのだろうな、とつゆりは思う。するとまさかこころの声が漏れたわけではないだろうに、まつも、
「まるで妹ができたようにございまする」
 なんてやさしく笑った。髪をひと通り梳かし終えると、器用な手つきで結い上げて簪を差し入れる。できましたよ、と軽く背を叩かれた。
「とてもよくお似合いで」
「……あ、ありがとうございます」
「では、朝餉の準備に参りましょうか」
 すっと立ち上がるまつに続いて腰を上げる。いつもと違う髪型はどこかむず痒かったけれど、髪といっしょにきゅっと身も引き締まるようだった。

 廚ではすでに何人かの女中が朝餉の下ごしらえに取りかかっていた。
「まずは手を清めて下さりませ」
 促され、つゆりは汲んであった綺麗な水で手を洗う。料理なんて現代でさえほとんどしなかったが、自分にできることならばなんでもしたいと思っていた。よくしてくれるひとたちに、僅かでもいい、なにかを返せるように。
 それからは握り慣れない大きな包丁で野菜を切ったり、皮を剥いたり。恐ろしく手際の悪いつゆりに、しかしまつはなにも云わずテキパキと指示をしてくれる。もちろん、その手は目の前の鍋を混ぜたり火加減を調整したりととにかく忙しくて、見ているこちらが目が回りそうだった。ほかにも手伝いの女中が数名動いていたものの、如何せん量が多いのだ。まつ曰く「うちの殿方は育ち盛りの童子以上にお食べになりまするゆえ」とのことだった。
 ひととおりおかずとなるものを作って、ご飯もふっくらと炊けたら、皿に盛りつけ膳に並べる。それらを女中たちが部屋へと運んでいく。
「犬千代様と慶次を起こして参りますゆえ、つゆり殿は真田殿を呼んで来て下さりませ」
 まつのことばに、わかりました、と返して、つゆりは幸村の部屋へと向かった。

 足取りは緊張していた。理由はわかりきっている、髪型と簪のせいだ。もしかしたら幸村はもういつものように鍛練をしているかもしれないと、つゆりは庭のほうから回ってきたけれど、槍を振るう姿は見られなかった。それでも、おそらくもう起きているだろう。
 ひとつ、息を深く吸ってから、襖越しに呼びかける。
「幸村さん」
 すると、幸村にしては珍しく返事が返ってこない。声のボリュームをあげてもう一度呼んでみるも、やはり同じことだった。すでに部屋にはいないのだろうか、と思い始めたところでようやく慌てたような声が投げかけられた。
「お、お待ち下され……!」
 ばたばたと急ぐような足音に次いで、スパンと勢いよく襖が開けられた。出てきた幸村はまだ寝衣姿で、着崩れしたそれと、あちらこちら好き勝手に跳ねてしまっている髪が、本当にたったいま蒲団から出てきたのだということを物語っている。
「あ、お、おはよう、ございます」
 じ、とこちらを見たまま動かない幸村に、恐る恐る挨拶をした。ぱちくりと数度瞬きをしたかと思うと、幸村はもともと大きな目をさらに見開く。
「つゆり殿……?」
「え……は、はい」
「その、すみませぬ。いつもと違う雰囲気に、つゆり殿ではないような気が致したゆえ」
 しかし、と幸村はつゆりが口を挟む間もなく続けた。どきりとつゆりの心臓が跳ねる。
「やはり、よくお似合いになる」
 とても嬉しそうに笑う幸村に、つゆりは顔が熱くなるのを感じた。こんなにも喜んでくれるだなんて思いもしなかったのだ。髪を結ってくれたまつに、改めて胸の奥で礼を呟く。それから、あとで自分でも使いこなせるように、まつに教えてもらおうと思った。
「もう、朝餉の刻でござろうか」
 幸村に問われ、つゆりは自分がどうしてここへ来たのかをすっかり忘れていたことに気づく。慌てて、はい、とうなずけば、幸村はその無造作に跳んだ髪をがしがしと掻いた。
「すっかり寝坊にござるな……。少々、気が抜け申した」
「珍しい、ですよね」
「昨晩はその、気が張っておったゆえ」
 面映ゆげに目を伏せる。その気持ちはつゆりにもよくわかった。つゆりもとても緊張していたから。
「つゆり殿は先に向かって下され。仕度を整えてあとから参りまする」
「あ……いえ、待ってます。まつさんに、連れてきてって頼まれたので」
「左様にござるか。では、急ぎ着替えて参るゆえ、今しばらくお待ち下され」
 云うか早いか、幸村は部屋の奥へと引っ込んだ。襖はぴたりと閉じられたけれど、その物音から、焦ったように寝衣を脱ぎ捨てて装束を着込む姿が浮かんで、どうにも微笑ましかった。

 朝餉を食べて、片付けを済ませたあと、陽が高くなりきる前につゆりたちは前田家を出ることにした。もう行くのかい? と慶次は驚いていたけれど、急ぎの旅にしては充分すぎるほどの休息をとってしまった。
 前田家のひとたちはみんな温かくて、やさしかった。突然お邪魔してしまったにも関わらず、まるで家族のように迎えてくれた。つゆりは少しだけ、現代で変わらず生活を送っているであろう家族が恋しくなってしまう。
「よい嫁御になるのですよ、つゆり殿」
 出発の間際、まつがまるで妹を叱るようにそんなことを云うので、つゆりは思わず、違うんですよ、と返してしまった。
「私が、幸村さんのお嫁さんになるひとだなんて、嘘なんです」
「あら、そうなのでござりまするか?」
「はい」
 嘘をついていてごめんなさい、とつゆりが謝ると、まつはゆるりとかぶりを振った。
「なにか事情があるのでござりましょう」
 そう云って、深くは問わずにいてくれた。
「この近くに雨神殿が来られているとのことで、外は雨だ。どこへ向かうのかは知らぬが、視界も悪い。道中、気を付けて行くのだぞ」
 利家が幸村とつゆりに念を押す。云うまでもなく、それはつゆりのことであったけれど、幸村はただひとつ首を縦に振って、お世話になり申した、とお辞儀をした。つゆりもそれに倣って頭を下げる。
「幸村、つゆりちゃん、また来てくれよな」
「うむ。次に顔を合わせた折は是非とも手合わせを願いとうございまする」
「喧嘩かい? いいねえ」
「手加減はなしにございまするぞ」
 にかりと歯を見せる慶次に、幸村も明るい表情で答える。そこには穏やかな友情が見え隠れしていて、つゆりにはなんだか羨ましかった。
「じゃあな。頑張れよ」
 長い腕を大きく振って、見送ってくれる。とても濃い時間だったな、とつゆりは背後に六つの柔らかなまなざしを感じながら振り返った。
 お祭りも、美味しいご飯も、簪の差し方も。すべてつゆりにとってプラスになるものばかりで、なにかを返すどころか、たくさんのものを貰ってしまった。

 あとはもう、それらを抱えて、まっ直ぐ四国へと向かうのみだ。




紅さす贈りもの

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