「利! まつねえちゃん! お客さんだよ!」
 門を通ると慶次が嬉々として彼の家族を呼んだ。急いたような足音が廊下を駆ける。
「まあ慶次、おかえりなさい」
「おかえり慶次!」
「ただいま。友だちを連れてきたんだ」
 あがってあがって、と促され、軽く頭を下げてから幸村もつゆりもそのことばに甘える。慶次の叔父である前田利家がわずかにその目を見開いた。
「貴殿は武田の、」
「真田源二郎幸村にござりまする。一晩、宿をお貸し頂きたく」
「いいだろ? 利、まつねえちゃん」
「うむ。ゆっくりしていってくれ!」
「食事は大人数のほうが賑やかでようござりまする」
 利家もその妻のまつも、どうやら快くふたりを受け入れてくれるらしかった。人好きのする笑顔で、夕餉はなにに致しましょう、とまつがもらす。
「つゆりちゃんも、そんな固くならないでよ」
 慶次が笑った。つゆりはぴくりと小さく反応を示すと、すみません、とかすかな声で返した。そんな彼女を見て、緊張しているのだろうか、と幸村は思う。前々から感じてはいたが、つゆりはどうも人見知りする性質のようだ。
「慶次殿」
 ほかの者に聞こえぬよう、小声で呼ぶ。
「なんだい?」
「つゆり殿のことは利家殿やまつ殿にもご内密にお頼み申す」
 云えば、慶次は不思議そうな顔をしながらも、わかったよ、とうなずいた。彼らが密告するとは幸村も思っていないが、仮にも前田家は織田と繋がっているのだ。万が一のことがあってはならない。
「ところで、その娘も武田の者なのか?」
 利家がつゆりに目線を落とす。なんと答えるべきか、と考えるよりもさきに慶次が答えた。
「つゆりちゃんは幸村の嫁さんになる娘だよ。いまは仲を深めるための旅行中なんだってさ」
 そのことばを理解するのに幸村はいささかの時間を要した。ごまかしてくれたのはありがたい、が、もっと他にあったのではないかと思う。自分はともかくつゆりはいい気分ではないやもしれぬ。そう考えると幸村は彼女のほうを見ることができなかった。
「そうか、虎の若子も嫁をもらうような時期になったのだな」
「まあ! いつだったか戦場でまみえたときは破廉恥と仰っておりましたのに。ご立派になりましたこと」
「夫婦はいいぞ。毎日が幸せだ」
 まるで自分のことのように嬉しそうに笑う夫婦を前に、幸村はなにも云えないでいた。ただただ顔が熱いのだ。やはり夫婦など破廉恥極まりない、と胸の内だけで呟いた。

 夕餉は慶次の云っていたとおり、まつの手製だった。香りも良いし味も申し分なく、なるほど斯様な飯を毎日食べられる利家はたしかに幸せなのかもしれぬ、と幸村は思った。
「お口に合うかわかりませぬが」
「まこと美味しゅうございまする」
「そうだろう、まつの飯は天下一だ! どんどん食えよ!」
「つゆり殿はお味はいかがでござりますか?」
「はい、とても美味しいです」
「ならばようござりました」
 おかわりもありますよ、とまつが続けると、慶次がさっそく茶碗を差し出した。慶次も利家もよく食べるが、箸が進むのもうなずける。続けて、空になった茶碗を幸村も差し出した。
 何回目かのおかわりののち、つゆりが少し驚いたような目線を幸村に向けた。どうなさったのだ、と幸村が問うとつゆりは慌ててかぶりを振る。
「い、いえ、すごい、食べるな……って」
「つゆり殿は食がすすまぬので?」
「そんな、いつもより食べてるくらいです。でも、もうお腹いっぱいなので」
「つゆり殿は少食にござるな……」
「普通、ですよ。幸村さんたちが大食いなんだと思います」
 云って、つゆりはやっと一杯目の茶碗を空にする。皿のものもほとんど平らげているようだったが、よくそれだけの飯で足りるなと幸村は感心さえした。その薄い体のどこに食べたものが入っていくのかはたしかに不思議ではあるが、倒れてはしまわぬかと気が気ではない。幸村がそう云うとつゆりは、
「幸村さんこそ、すごく食べるのに細身で羨ましいです」
 と返した。それは褒められているのかどうか、少し微妙だ。幸村にいわせてみれば、男であるのに細身というのはなんとも軟弱な気がしてしまう。武人なれば、信玄のような逞しい身体はとても理想的だ。自分がああいった身体つきならば、つゆりももっと安心できるのだろうか。幸村はそのようなことを考えながら最後にもう一杯ご飯をおかわりした。

 充分すぎるほど食べたあとは客間に通される。一体なんの計らいなのか、最初こそふたりでひと部屋を進められたが、幸村もつゆりも慌てて断った。米沢城のことがあったため、同じ部屋は非常に気まずい。
 湯浴みを済ませ、あとは寝るだけという頃、幸村は暗がりの中で先刻買ったものを取り出した。
 漆塗りの赤い簪。
 はぐれてしまったつゆりを探していた際、偶然通りかかった出店で見つけたものだった。可憐な花の飾りがつゆりに似合いそうだと思うと、手は無意識に財布の紐を緩めていた。
 滑らかな光沢は美しく、つゆりの艶やかな髪に合うだろうことは容易に想像できる。もしくは、あの着物の帯に差し込めるのもよいかもしれぬ。以前、つゆりが着ていた紅掛空色の着物にはよく映えるはずだ。
 問題は、これを渡しにいく決心がなかなかつかぬということだった。つゆりがいまも大切にしている唐傘は、理由をつけて佐助に任せてしまったため、実質幸村が彼女に贈り物を直接手渡したことはない。
 つゆりのことだ、きっと喜んでくれるだろう。それから、見逃してしまいそうなほど微かな笑みを浮かべて、感謝のことばを紡ぐのだろう。
 そこまで考えられるのに、どうにもあと一歩が踏み出せずにいた。
 しかし、燻っていても致し方ない。幸村は簪を握りしめて立ち上がると、襖を開けて廊下へと出た。つゆりが案内された部屋はどこだったか。そう視線をめぐらせると、着流し姿の慶次がちょうどこちらへ向かってくるところだった。
「あれ、幸村」
 眠れないのかい、と陽気な声音で尋ねながら、慶次はあくびをもらす。幸村は短く、いえ、と答えた。
「慶次殿はどうなされたので」
「実は少し、幸村と話そうと思って」
 そう云った慶次の手には徳利が収まっていて、それを軽く持ち上げて見せる。しかし次の瞬間には彼の目線は幸村の握りしめた手に移った。
「でも、幸村も用事があるみたいだね」
 ぎくりと胸が鳴る。できることなら気づかれたくはなかった。とっさに袖へと簪を隠すも、すでにあとの祭り、だ。
「つゆりちゃんにあげるのかい?」
「……い、いや」
「彼女の部屋はつきあたりを曲がってすぐ右手だ」
 きっと喜ぶと思うよ、と当たり前のように付け加えて慶次は幸村を通りすぎていく。幸村は肩透かしをくらった気分だった。てっきり、またからかわれるのではないかと、思っていたのだ。
「け、慶次殿」
 その後ろ姿に呼びかける。
「感謝致す」
 振り返った慶次は面食らったような表情のあと、おかしそうに笑って手を振った。
「おやすみ。頑張れよ」

 背中を押されるような心地で、重かった幸村の足どりは自然と軽くなっていた。躊躇うことはない。渡してしまおう。
「つゆり殿」
 慶次が教えてくれた部屋の前で、意を決してその名前を呼んだ。つゆりもまだ起きていたのか、はい、と小さな返事はすぐに返ってきた。
「失礼致す」
 なるべく音をたてぬよう、静かに襖をあける。つゆりは部屋の隅のほうでなにやら弓の手入れをしているようだった。その手を止めて、彼女が顔を上げる。
「どうしたんですか、幸村さん」
「そ、その、」
 つゆりの傍に腰を下ろす。首を傾げ、不思議そうに見上げてくる双眸は相変わらず深い夜の色をたたえていた。幸村はその闇からつゆりを救い出す術を知らない。
「つゆり殿」
「え、あ」
「受け取って下され」
 薄い、陶器のような手をとって幸村はつゆりに簪を握らせる。行灯のこころもとない明かりのなかで、白い肌に漆の赤は驚くほど鮮明に映えた。
「こ、れ……」
「祭でそなたを探している際に見つけたのだ。つゆり殿に似合うと思ったゆえ」
 重ねていた手をそっと離す。つゆりは改めて簪に目を落とすと、ひかりに翳すようにして持ち上げた。処々に施された金蒔絵がきらきらと角度によって煌めく。
「綺麗……」
「そうでござろう」
「でも、私なんかに、勿体なくないですか……?」
「なにを仰られる。そのようにご自分を卑下するようなもの云い、おやめ下され」
 それとも、この幸村の目は信用できぬと? そう幸村が続ければつゆりは焦ったように首を横に振った。
「そ、そんなんじゃ……!」
 落ち着きなく慌てる様子に、幸村も我ながら意地が悪いかと思ったが、こうでも云わねばきっとつゆりは納得しない。
「つゆり殿は、可愛らしゅうござる。……そのことばに偽りはござらん」
「ゆっゆきむら、さん」
「某は世辞が下手な性分ゆえ、思ってもいないことを口には出しませぬ」
「わ、私はそんな、幸村さんが嘘をつくようなひとだとは、思ってない、です」
 ただ、と零しながら、つゆりは俯いてしまう。伏せられた瞳はまるで、どこかにことばが落ちてはいないかと、その続きを探すかのように右往左往と忙しなく動く。そうして懸命に紡がれることばはいかなるときもまっ直ぐで、幸村は殊更、彼女を愛らしく思うのだ。
「ただ、こういうの、慣れていなくて。……そんな風に云われると、なんて返していいか、わからないんです」
 幸村の反応を恐れているのか、つゆりは俯いたままだ。一体なにがつゆりをここまで卑屈にさせたのか、幸村には知る術もなかった。自分たちと出逢う前の彼女の生活に興味がないと云ったら嘘になる。しかし、こればかりはこちらから訊くわけにもいかなかった。
「そのまま、受け止めて下さればよいのだ。それが一等、嬉しゅうござる」
「そ、のまま……」
「少なくとも、某はそれでようござる」
 ゆるりと瞳を上げたつゆりは、幸村の目を見るとたしかにうなずいた。
「ありがとう、ございます。……その、すごく嬉しいです」
 それから少し照れたように、やはり彼女は小さく笑ってくれたのだった。




深い夜に煌めく

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