「……そ、その、つゆり殿は、か、かっかか可愛らしゅうござる!」
 旅の途中、雨を受ける木陰で休息をとっていたときに、幸村が突然そんなことを云い出した。
 照れるよりも先に、つゆりは唖然としてしまった。幸村の口からそんなことばが飛び出してくるとは思わなかったのだ。いまはふたりきりであるが、もしもこの場に佐助が居たなら、盛大に吹き出したことだろう。
「ど、どうしたんですか? いきなり」
 幸村の顔は気の毒なくらいまっ赤になっていたけれど、そう問わずにはいられなかった。
「いっ、いや、先日、云っておっただろう、佐助が。その……」
「え? ああ……」
 そういえば、そんな話もした気がする。しかし、あれはただの戯れであったし、なにより、何日も前のことだった。馬を進めているあいだも、こうして休憩をとっているあいだも、幸村がずっとそのことを気にしていたのだと思うと、つゆりはなんというか、その頭を撫でてあげたいような、もしくはその手を握ってあげたいような、なんとも形容し難い気恥ずかしい気持ちになった。
「い、行きましょうぞ」
 幸村が急いたように立ち上がる。
「あの、」
「う、見ないで下され。……面映ゆうござる」
 目線を上げたつゆりに、幸村は口もとを腕で覆いながら、その顔を背ける。焦げ茶色の髪から覗いている耳は、彼の戦装束にも負けないくらい、やはりまっ赤だった。

 蹄の音だけが響いていた。
 森は深く青々としていて、葉を雨に濡らしている。さきほどのやり取りのせいか、幸村とつゆりのあいだには、どことなく落ち着かない雰囲気が漂っていた。
 なにか声をかけるべきだろうか、と考えはじめた頃。そんな空気さえ吹き飛ばしてしまうような疾風が森を縫うように駆け抜けた。前方ではそれとは別の風が、もしくはそれの源か、葉を散らしながら大きく渦を巻いている。桜吹雪かと錯覚するほどの華やかさのあと、幸村の手綱を握る手が、一瞬、強ばったのがわかった。
「あれ、あんた、真田幸村じゃないかい」
 陽気な声が幸村を呼ぶ。風はもう、静かに木々のあいだを泳いでいた。
「……慶次殿」
 人懐こい笑みを浮かべる大柄な男に、幸村が呟いた。男は高い位置でひとくくりにした長い髪を揺らしながら、嬉しそうに近づいてくる。
「お知り合い、ですか?」
 本人には聞こえぬよう、つゆりが小声で尋ねる。
「う、うむ……。前田慶次殿にござる。少々、縁があったゆえ」
 小さくうなずいた幸村はどこか歯切れが悪い。不思議に思いつつも、馬を降りた幸村のあとに続いて、つゆりも毛並みのいい背から滑るように降りた。
 前田慶次。現代でも聞いたことのある名だ。
「いやあ、久しぶりだねえ。元気だったかい?」
「見てのとおりにござる。慶次殿も、お元気そうで何より」
「俺はいつでも元気だよ、って云いたいところだけど、正直、暑さと渇きで干からびるところだったよ。でも、ようやく降ってきた」
 空を見上げる慶次は、こころの底から嬉しそうな笑顔を浮かべていた。やはり、どこの地域も干魃に悩まされているのは同じらしい。
「ところで、そのお嬢ちゃんは? もしかして幸村の」
「わけあって今、甲斐にてお預かりしている神子殿にござる」
「あれ、違うのか」
 てっきり幸村の嫁さんかと思ったよ、と慶次が笑う。そのひと言に、幸村の顔が一気に赤くなった。深い意味などないはずなのに、つゆりまで恥ずかしくなってしまって、思わず俯く。
「そっ、そのようなわけが、ないでござろう!」
 幸村の焦った声が妙につゆりの頭の後ろで響いた。
「はは、悪かったよ。相変わらず初なんだなあ、あんた」
「なっ……! 某は……っ」
「はいはい、わかったって。ん? ちょっと待てよ。神子殿って……もしかして、その娘が雨神さんなのかい?」
「い、いかにも。彼女が雨神殿にござる」
 冷静さを取り戻したのか、幾分か落ち着いた声が答える。慶次の表情が、花を咲かせたようにぱっと明るくなった。
「俺、雨神さんにずっと来てほしいって思っていたんだ!」
 飛びつくように手を掴まれる。反射的につゆりの肩がびくりと跳ねた。幸村も驚いたのだろうか、つゆりは隣でその身体がぴくりと動いたのを感じた。
「そうか、この雨は雨神さんのお蔭だったんだなあ! 俺、前田慶次ってんだ!」
「つゆり、です……」
「つゆりちゃんか! よろしくな!」
「こ、こちら、こそ」
「もう、ようござろう。つゆり殿が困っておられる」
「こりゃすまねえ!」
 幸村の制止に弾かれたように慶次の手がつゆりの手から離れる。ほっとすると同時に、つゆりはなにか違和感のようなものを覚えた。しかし、一体なにがひっかかったのか、自分でもよくわからない。
「実はさ、もしかしてと思って、雨雲を追っかけてここまで走ってきたんだ」
 楽しそうに慶次が続ける。
「その足で、でござるか」
「まあね。でも、京はすぐそこだ。大した距離じゃない」
「それはようござった。某たちも今宵は京にて一晩を過ごそうと思っておったゆえ」
「なら、俺んとこに泊まっていったらどうだい? まつねえちゃんのうまい飯つきだ」
「しかし、」
「うん、そうしよう。いいだろう? つゆりちゃんも」
 急に話を振られて、つゆりは勢いあまってうなずいてしまった。あ、と思ったときにはもう遅く、慶次のなかでは決定事項になってしまったらしかった。
「つゆり殿がよいと云うならば、お断りする理由もござらん。おことばに甘えさせていただきたい」
「そうそう。金も浮くし、そのほうが絶対いいって」
「ありがとうございまする」
 にこっと笑う慶次に、幸村が軽く頭を下げる。一瞬だけ伏せられた瞳は、すぐに前を見据えた。

 慶次に合わせて、幸村とつゆりも歩くことにした。馬は幸村に引かれながらゆるやかに歩む。
 つゆりには慶次はとても面白い人に映った。とにかくよく喋って、よく笑う。おまけに話上手だ。
 けれど、幸村はそんな彼の性格があまり得意ではないのかもしれない。相槌やことばの端々から、なんとなくそうつゆりは感じた。先ほどの違和感の正体もおそらくこれだろう。
「その傘、つゆりちゃんによく似合ってるね」
 一歩先を行く慶次の目が、馬を降りるならばと差した紅色の唐傘に向けられる。
「……幸村さんが、くれたんです」
「そうなのかい。幸村が女の子に贈り物だなんて、どういう風の吹きまわしだい?」
「慶次殿には関係ござらん」
「つれないなあ」
 そっけない受け答えを気にするでもなく、慶次はからりと笑った。
「さて、着いたみたいだ!」
 目線の向こうは明るく活気づいた城下町。人々のつくり出す喧騒が、つゆりの耳をざわめかせた。みんながみんな、とても幸せそうな表情をしている。
「慶次殿」
「なんだい?」
「雨神殿のことは、くれぐれもご内密にお頼み申す」
 幸村の申し出に、慶次は一瞬だけ不思議そうな表情をしたけれど、すぐに、そうかい、と笑った。
「なんでかは知らないけど、わかったよ」
「感謝致す」
 これは、秘密の旅なのだ。つゆりはすっかりそのことを失念してしまっていた。もしも、四国と同盟を結ぶことが織田軍の耳に入ってしまったら、奥州で政宗とともに立てた綿密な計画は、瞬く間に水の泡となってしまう。それはなんとしても、避けなければならない。
 そうでなくとも、つゆりの存在が割れればなにかしらの面倒が起こる可能性が高い。すでに噂は出回っているのだ。自分も気を付けなければ、とつゆりは唇をきつく結んだ。

「慶ちゃん! やっと雨が降りよったで!」
 街中を進んでいくと、通りがかった若い女の商人が、嬉しそうに慶次に声をかけた。
「ああ。本当、よかったよ」
「いま、みんなで祭りを開こうって話になってるんよ」
「お、いいねえ」
「慶ちゃんも来てなあ」
「もちろんさ。またあとでな」
 手を振って、慶次は歩き出す。そのあとも何人もの町人に声をかけられていて、とても慕われているのだな、とつゆりが感動するほどだった。つゆりには到底まねできない。
「祭りかあ、楽しみだな。つゆりちゃんは祭りは好きかい?」
「えっ、あ、はい」
「そいつはよかった! 幸村といっしょに楽しんでいくといいよ!」
「慶次殿、」
「堅いことは云わずにさ。込み入った事情があるんだろうけど、だからこそ、ぱあーっとね」
 ぱあーっと、と腕を大きく広げる慶次。幸村がつゆりに、
「どう致しまするか」
 と尋ねるのでつゆりは、
「楽しみです」
 と答えた。
 慶次が満足そうにうなずいた。




花纏う風の都で

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