幸村の云ったとおり、佐助はその日の夜更け、四国からの返事を持ってこっそりと音もたてずに帰ってきたようだった。

 疲れの抜けきらない身体を起こして、朝餉を食べたら上田へ出発する旨をつゆりはその本人から聞く。外はまだ薄暗いが、小鳥の歌うような鳴き声が楽しげに部屋まで届いていた。
「荷物とかは朝餉の前に準備しちゃってね」
「……はい」
「ずいぶん眠そうだけど、大丈夫?」
「す、すみません……大丈夫、です」
「ごめんね、疲れてるのに」
「私が、ついていきたいんです」
「ありがとね」
 困ったような、申し訳なさそうな、曖昧な笑顔を佐助は浮かべた。つゆりは霞がかった頭をゆるゆる振って、こちらこそありがとうございます、と、寝起きのせいで少し掠れた声で答えた。
「もしあれだったら、もうちょっと寝ててもいいけど」
「いえ、起きてます」
「無理しなくていいよ」
「また寝ちゃったら、次は起きられる気が、しないので」
「ああ、なるほどね」
 苦笑まじりに納得しながら、佐助は唐突に篭手を外し始めた。なにをするのだろう、と黙って見ていると、その手が伸びたのはつゆりの髪だった。
「絡まってるの、気になるんだよね」
 防具を外してくれたのは、つゆりを傷つけないようにという配慮だったらしい。まるで腫れ物にでも触れるかのように、縺れあった箇所をやさしくほどいてくれる。
 初めてじかに感じる佐助の体温はあまり高くはなかった。それでも、佐助が指先で触れたところからじわりと温かくなっていくような錯覚を起こす。
「はい、これでよし」
 最後に手ぐしで整えると、満足げにつゆりの頭をぽんと叩いた。
「あ、ありがとうございます」
「それじゃあ、朝餉できたら呼びにくるから、準備始めておいて」
「はい」
 返事を返せば、ひらりと手を振って佐助は音もなく姿を消す。つゆりはとりあえず、自分の寝ていた蒲団を畳む作業から始めることにした。

 あんなにもやさしい手がどうして人を殺めるためにあるのだろうか。つゆりは幸村や、さっきの佐助の手を思い起こす。そんなことを考えてしまうのは、自分がまだこの世界を甘く見ているからだということも、つゆりはわかっていた。
 ここで過ごせば過ごすほど、知らないことやわからないことがどんどん増えていく。波のように押しよせて、幾度となく呑み込まれてしまいそうになる。けれど、それを支えてくれる手が在るのもたしかなのだ。
 四国へ行って、うまく事を運ぶことができたら、そのまま戦が始まるらしい。急がなければならないということは、今の慌ただしい状況を見てもひしひしと痛いくらいに感じている。それでもつゆりは、このまま時間が止まってしまえばいいのにと願わずにはいられなかった。

 出発の準備はすぐに片づいた。もともとつゆりには私物なんてほとんどないのだから、当たり前と云えば当たり前だ。
 弓と矢と、お菓子やガラクタが入った鞄がひとつ。あとは着替えの袴や着物を何着か借りなければならなかったが、それだけだ。
 本当は鞄なんて荷物になるだけだから置いていってもかまわないのだけれど、どうしても手放す気にはなれなかった。
 お菓子は現代の味が恋しくなったときに食べたくなるし、とっくに電池が切れてしまった携帯電話も傍にあるだけでなんとなく落ち着くのだった。

 朝餉はこころなしか少しだけ豪華だった。これから奥州へ行っていたよりも、もっと長いあいだ、甲斐には戻ってこられなくなる。
 門の前までお館様と数人の忍の人たちが見送りに出てくれた。
「慢心するでないぞ、幸村!」
 叱咤激励。そんな表現がよく似合う。けれど、それもどこか淋しさを含んでいるように思えた。
「はい、お館様! 行って参りまする!」
「独眼竜により預かった指命、必ずや果たして参れ!」
「心得ましてござりまする!」
 活力に満ちた声を上げるふたりに、つゆりもひとり気を引き締める。
 そうこうしているうちにも佐助が幸村の愛馬を連れてこちらへ向かってきた。もう、出発だ。
「旦那あ、準備できたぜ」
「佐助! ご苦労であった」
「俺様は先に上田へ向かってるから、日が暮れない程度にゆっくり来てよ」
「うむ。急ぎ向かおう」
「いま云ったこと聞いてた?」
「のんびりなどしていられるものか。一刻の猶予もないのだぞ」
 云うが早いか、幸村は愛馬に飛び乗る。やれやれ、といった調子に佐助の肩がすくめられたのがつゆりには見えた。
「お館様。なにかあれば忍の者を寄こしますんで、おねがいします」
「む。頼んだぞ、佐助」
「じゃあほら、つゆりちゃんも乗っちゃって」
「あ、はい」
「む、これはすみませぬ。つゆり殿、お手を」
「……し、失礼します」
 馬上から差し出された手に掴まって、いつものようにつゆりは引き上げてもらう。すとん、と落ちついた幸村の前は、もう定位置も同然になっていた。
「馬の稽古をする時間があればいいんだけどね」
 ぎこちなさの残るつゆりと幸村を仰ぎ見て、佐助が仕方なさそうに笑った。

 上田城へは半日もかからない。到着したのは太陽がゆるく傾きかけてきた頃だった。
 磨きあげられた廊下を幸村の後に続いて歩く。上田城は比較的まだ新しい城らしく、外観も綺麗だけれど、城内は木や畳の濃い香りに満ちていた。
「お帰りなさいませ、幸村様」
 ふいに降り立った影にどきりとつゆりの心臓が跳ねる。どこかで聴いたことのある声だ。
「おお、才蔵ではないか」
 知っている名前。それは、つゆりがこの世界に来てまだ間もない頃、一度だけ会ったことのある人のものだった。
「お久しゅうございます」
 雨神殿も、とつけ足して、才蔵と呼ばれたその人はゆるりとつゆりを見遣った。つゆりが慌ててお辞儀を返せば、どこか冷たげな瞳はすぐに幸村へと戻る。
「お元気そうで何よりですが、いささか留守が長くはありませんか」
「すまぬ、立て込んでおったゆえ」
「またすぐに四国へ赴くとかで」
「うむ、そうなのだ」
「まったく、城代様が気の毒でなりません」
 困ったようにすまぬ、と繰り返す幸村に、つゆりまで申し訳ない気持ちになった。幸村には自分の守るべき城があって、それでも甲斐からここへなかなか戻ってこられなかったのは、ほとんどがつゆりのせいなのだ。
 幸村が居なければ、当然そのあいだは代わりの者が城を守らなくてはならない。それが、つゆりが甲斐でお世話になってからずっと続いていたということだ。
「ごっ、ごめん、なさい……!」
 深く、頭を下げる。今朝、佐助が丁寧にとかしてくれた髪がつゆりの視界の両端に映った。
「なっなにゆえつゆり殿が謝られるのだ!」
 驚いたように幸村が声を上げるけれど、つゆりは構わず続ける。こころ苦しさで胸がいっぱいだった。
「ゆ、幸村さんは、私を、ずっと気にかけてくれて、いたんです。奥州へ行ったのだって、半分は、私のわがままです」
 だから、幸村さんはなにも悪くないんです。
 ごめんなさい、と震える声を叱咤してもう一度謝った。幸村や佐助、信玄、館の女中たちだけではなかった。その裏にだって、自分のせいで迷惑を被っていた人がたくさんいたのだ。少なくとも、主に愚痴を零すくらいには。
「お顔を上げて下さい、雨神殿」
 低い、涼しげな声が云った。おそるおそる頭を上げる。
「そこまで謝られてしまえばなにも云えますまい。雨神殿に免じて小言はなしに致しましょう」
 淡々と紡がれたことばに、せばまっていた気道がゆるむ。すっと生き返るかのように肺に吹き込んだ風が、ほんの少しつゆりのこころを軽くさせた。
「申し訳ござらん、つゆり殿」
 心配そうな色をたたえて幸村がつゆりを見た。いえ、とひと言、つゆりは首を横に振って答える。それこそ、幸村が謝ることなどひとつもない。
 すると、才蔵がおもむろに口を開いた。
「……それに、私こそ雨神殿には一度無礼を働いておりますから」
 あの時のことを云っているのだ、とつゆりはすぐに悟る。その声の端々がさっきまでよりどこか丸くなったように聴こえて、ほっと胸を撫で下ろした。依然として冷めた表情は変わらないけれど、忍なのだ、元よりそういう人なのだろう。
「あの折りは申し訳ありませんでした」
「こ、こちらこそ、お騒がせして、すみませんでした」
「いえ、あれは私の早とちりで、」
「そっそんな、」
「はいはい、謝り合いっこはそこまでね」
 急に割って入った別の声に驚きでつゆりの喉が引きつった。
「長、邪魔しないで下さい」
「邪魔もなにも話が進まないでしょーが」
 そっけなく云い放つ才蔵へ、佐助が面倒臭そうに溜め息をつく。いつから居たのだとか、どこから出てきたのだとか、つゆりにも思うところはたくさんあったけれど、彼らにしてみればこれが日常的なことなのだ。自分もそろそろ慣れてもいい頃だというのに。
「佐助、準備はどうなっておる」
「順調だよ。今夜には出発できる」
「そうか。供はみな忍の者に頼もう。極力、目につかぬようにせねばならぬ」
「了解。才蔵も準備しておいてよね」
「もう整っております」
「そりゃ頼もしいこって」
 皮肉なのかなんのか、佐助がわざとらしく肩をすくめて見せた。
「幸村様と雨神殿は我らが誠心誠意お守り致しますゆえ、安心なさって下さい」
 佐助には目もくれずそう云ってから、失礼します、と才蔵は姿をくらませる。まるで風のような人だ。
「どうして俺様の部下はああも可愛いげのないやつばっかりなのかね」
 才蔵が消えたあたりに目をよこしつつ、長と慕われる佐助はそんな声を零す。
「なにを云うか、佐助。才蔵は俺たちを案じてくれているのだろう」
「そりゃあ、それがお仕事ですからね」
「……俺にはお前のほうが可愛いげのないように思えるが」
「ええ? そんなことないよね、つゆりちゃん」
「え、あ、はい」
 急に話を振られたことに慌てて、つゆりはとっさに答えてしまった。
「ほらね!」
「才蔵もよい者にござろう、つゆり殿」
「は、はい、素敵な人だと、思います」
 でも、佐助も才蔵も可愛いげがあるかと云われると、それはちょっと違うような気がする。つゆりにとって、どちらも素敵な人に変わりはなかったが。
「じゃあ訊くけど、旦那」
「なんだ」
「つゆりちゃんと才蔵だったらどっちが可愛い?」
「なっ……!」
 固まる幸村に、佐助はいかにも意地の悪い笑みを浮かべる。なんてことを訊くのだ。まるで幼稚な質問に、つゆりの心臓もぴしりと音を立てたような気がした。
「そっ、そういう話ではないであろう!」
「なんなら俺様とつゆりちゃんでもいいよ」
「き、気色の悪いことを申すでないわ……! 俺は自分の部屋に戻るゆえお前は身支度でもしておれ!」
 一気に捲したてると、幸村は逃げるように走り去ってしまった。ちらりと盗み見た顔はびっくりするほど赤くなっていて、つゆりまで恥ずかしくなる。そんな幸村に佐助は今度こそ声を上げてからりと笑った。
「元気だねえ、旦那」
 からかうような科白に、つゆりは少し極まりが悪くなって視線を逸らした。
「……佐助さんは、意地が悪いです」
「あら、今さら気づいたの」
「……」
 そういった話が苦手だからこそ、逆に意識してしまうなんてことはよくあることで。それをわかった上で佐助はわざとあんな云い方をしたのだ。手のひらの上でうまく転がされたのは、なにも幸村だけではない。
「まあ、俺様からしてみれば、ふたりとも可愛いけどね」
 けろりとして佐助が云う。ふたりというのは幸村とつゆりのことだ。つゆりは幸村が走っていってしまったほうを見遣った。どこか、釈然としないような、喉の奥にわだかまりがあるような、奇妙な気分だ。長く続く廊下には佐助とつゆり以外の人影は見られなかった。




つかの間の戯れ

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