奥州を出て数日。見覚えのある景色につゆりのこころは浮き立った。甲斐を離れてまだひと月にも満たなかったけれど、ここから奥州までの旅はひどく長かったように思えた。この森を抜けたら、もう館はすぐそこだ。
「あと一時ほどで着きまするぞ」
 幸村が云った。その声もどこか嬉しそうだったけれど、つゆりは自分がそわそわと落ち着きがないのを見られてしまったようでなんだか恥ずかしかった。

 門の前で待ってくれている大きな人影が見えた。他でもない、武田信玄その人だ。傍らにはつゆりの知らない忍も何人かいる。きっと、佐助はまだ四国への使いの途中なのだろう。
「お館様! 幸村、ただいま帰りましてございます!」
 信玄の前で馬を止めて、幸村はほとんど飛び降りるようにして馬から降りた。その後からつゆりに手を差し伸べてくれて、彼とは正反対のおぼつかなさでつゆりも地面に足を着く。
「む、ご苦労であったな」
 信玄が大きくうなずいた。
「つゆりも、大層疲れたじゃろう」
「い、いえ……」
 平衡感覚が掴めなくて若干ふらふらしながらもそう答える。それから、云うべきか云わないべきか迷って、つゆりは喉元まで出かかっていることばをせき止めた。
 どうしよう。やっぱり、やめておこうか。
「ん? 何か云いたそうじゃな」
「あ……その、」
「云うがよい」
 柔らかな眼差しはまっ直ぐつゆりに向けられていた。思い込みかもしれないが、つゆりは信玄もそのことばを待ってくれているような気がした。
「たっ、ただいま帰りました……!」
 云いきった瞬間、顔が熱くなる。図々しくはないだろうか。思っていたよりも数倍、気恥ずかしい。
 けれど、つゆりの心配など杞憂だとでも云うように、信玄は破顔した。
「よく帰ってきた」
 大きな広い手のひらで信玄はつゆりの頭をわしわしと撫でる。この世界での、つゆりの帰る場所はここなのだと、教えるように。
 ふとつゆりが隣を見れば、幸村と目が合った。なにも云わないけれど、静かに微笑んでくれていて、どうしようもない嬉しさに胸の内が温かくなる。
 しかし、それも束の間。幸村はすぐに凛とした表情に戻った。未だに足下が浮いてるような感覚が消えないつゆりと違って、その姿勢はぴんと綺麗だ。どうしてこうも違うのだろうとつゆりは不思議に思う。やはり、普段からの努力の賜物なのだろうか。
「お館様、急ぎご報告したいことがござりまする」
「ワシも聞きたいことが山ほどある。館で聞くとしよう」
「つゆり殿にもご同席願いたく思いまする」
「は、はい」
 つゆりには何も話せることなどなかったが、しっかりとうなずいた。ふたりの会話が聴けるのはとても貴重なことだ。

 久しぶりの躑躅ヶ崎館。温かみのある木や畳の匂いがつんと鼻腔を掠めて、どこか懐かしいような気持ちになる。帰ってきたのだな、とつゆりは改めて感じた。とは云っても、明日にはもう発たなければならない。
 幸村は奥州での出来事をこと細かに信玄に伝えた。以前、ここ甲斐にも現れた刺客が出たということ。どうやら織田軍の明智が主犯であるということ。政宗が織田軍の準備が整う前に攻め込もうと考えていること。それから、つゆりには彼らの力を無効化できるということにもその中でさらりと触れた。
「……そこで、我が軍も伊達軍に加勢したく思っておりまする。お館様のご意見をお聞かせ願いたく」
 真剣な表情で訴える幸村に、信玄はむう、とひとつ唸った。とても難しいことだ。それをわかった上での政宗と、幸村のこの判断なのである。
「どうか、お考え下され」
「それには軍神にひとつ休戦を申し込みたいところだが……」
 織田攻めの準備中に攻め込まれてはもとも子もあるまい、と信玄は髭を撫で付ける。
「なれば、この幸村が上杉公に申し立てを」
「いや、よい」
「……は」
「幸村よ。お主は何を独眼竜より課せられておる」
「……四国、長曾我部殿との締結にござりまする」
「ふむ、なるほど」
 深々とうなずくと、自分の中での結論が出たのか、信玄はぱっと眉を上げた。
「軍神には別に忍の者を送るとしよう。お主はその使命を果たしてくるのじゃ」
「はいっ、お館様!」
 武田軍は本格的に織田攻めに加わることに決まった。信玄は、あわよくば上杉軍も、と考えているようだ。
「にしても、興味深いのう」
 信玄が目線をつゆりに移す。
「つゆり、お主のその力よ」
 つゆりはなんと返事を返せばいいのかわからなかった。自分でも予期しないことであったし、故意ではなく無意識につゆりの中の何かがそうさせたとしか思えなかったのだ。
「しかし、奥州はともかく他国には漏らさぬがよい」
「そうでございますな」
「なに、案ずることはない」
 俯くつゆりを宥めるように優しい声音が云った。
「お主も幸村とともに西へ行くのじゃろう?」
「……はい」
「なれば、しかと前を見据えよ。かように浮かぬ面をしていては成せるものも成せぬであろう」
 ぎくりと胸がなる。畳へ向けていた目線を慌てて前へ向ければ、それでよい、と信玄は満足げに笑った。
「幸村、西まで着くに何があるかも知れぬ。ともに助け合うて行くのじゃぞ」
「心得ましてござりまする」
「つゆり、お主もじゃ。頼むぞ」
「はい」
 つゆりは唇を固く結ぶ。
 いつまでも甘えてばかりではいけない。自分も、幸村を支えられるくらい、強くなりたい。
 痛いほどそう思うのだった。

 ひと通りの報告を終えて、幸村とつゆりは信玄の部屋を出た。緊張の糸がほどけて、つゆりは詰まっていた息を小さく零す。
「お疲れでござりましょう。夜が更ける頃には佐助も戻ると思いまするが、それまでごゆるりとお休み下され」
「あ、はい。……ありがとうございます」
 軽くお辞儀をして、以前から使わせてもらっている客間へと足の方向を変える。最初の頃は広くて迷ってばかりいたのに、今ではこんなに勝手が利くのだと、慣れない米沢城で過ごした分がそう実感させた。
「あっ、あの、つゆり殿……!」
 少し進んだところで幸村に呼び止められた。随分焦った様子なので何事かと思い振り返れば、幸村は信玄の部屋を出てからまだ一歩も動いてないようだった。
 幸村はもごもごと云いづらそうに視線を右往左往させる。あまりに切羽詰まっているものなので、なんだかつゆりまで不安になってしまう。どうしました? と恐る恐るつゆりが問えば、幸村は一気に捲し立てた。
「その……もっもしつゆり殿さえよろしければ甘味などいかがでござりましょうか……!」
 思わず、訊き返しそうになった。まさかそんなお誘いのことばが来るとは予想だにしなかったのだ。
 よほど決心が要ったのか、等の本人は耳までまっ赤にしている。つゆりは気を遣わせてしまったのかもしれない、と少し反省した。
 けれど、それ以上に嬉しさがつのるのもたしかで。
「……幸村さんさえよければ、ご一緒させて下さい」
 云えば、幸村は驚いたように一瞬だけその大きな目を見開くと、柔らかな笑みを零して嬉しそうにつゆりの傍まで駆け寄ってきてくれる。つゆりは自分でも少しだけ、頬が緩むのを感じた。

 思い返せば、つゆりは幸村の部屋にはほとんど入ったことがない。必要なときはいつでも幸村から足を運んでくれていたからだ。そんなことを、今になって気付く。
 前に一度ここへ入ったのは、城下に降りるときだった。その時、幸村はつゆりが部屋に来たことにも気付かないほど鍛練に夢中になっていたのだ。
 最初はその様子を見ていたのだけれど、可笑しな夢にうなされてよく寝付けなかったからか、そのまま縁側で眠ってしまったことを思い出す。
 幸村の傍はどうも、安心しきってしまうらしかった。それでいて、変にどきどきすることも多いので、つゆり自身よくわからない。

 襖が開かれると、畳の匂いといっしょに淡い香りが鼻をくすぐった。香とは違う、ふわりと太陽のように暖かいそれは紛れもなく幸村のにおいだ。
 傍らに団子がたくさん乗ったお皿とお茶を置いて、縁側に座った。細い雨がしとどに庭を濡らしている。
「やはり、甲斐は落ち着きまするな」
 幸村が団子を手に取った。つゆりもそうしながら、つくづくと同意した。
「……私も、甲斐が好きです」
「なんと、嬉しゅうござりまする」
「私が落ちたところが甲斐で、それを拾ってくれたのが佐助さんで、よかったです」
 団子を次つぎに咀嚼していく幸村をしり目に、つゆりも手に持つそれをかじった。しっとりとした甘さが舌に絡む。忍の人の手作りなのだそうだ。いつもだったら佐助が作ってくれるのだが、と幸村は云っていたが、充分すぎるほどこの団子だって美味しい。
「幸村さん、ひとつ、いいですか」
「む、ひとつと云わずどんどんお食べ下され」
「あ、お団子じゃなくて、」
「こ、これはすみませぬ。なんでござりましょう」
「その、ことば遣い、なんですけど」
「ことば遣い……? なにか、知らずに無礼を働いておったなら……」
「ああ、いえ……そうじゃ、ないんです。その、逆で」
「逆……でござりまするか?」
 小首を傾げる幸村に、つゆりはうなずいた。前々から気になっていたのだ。幸村のことば遣いは、いささか丁寧すぎる。それが信玄に向けられるものならば違和感などないけれど、自分はそんな風に敬ってもらうほどの立場ではない。
「……もっと、崩してもらえると、私もとても、気が楽です」
「しかし、」
「佐助さんに接するようにとは、云いません、けど」
 どうも、むずむずと落ち着かないのだ。申し訳ないような気持ちになる。それに、嫌でも距離を感じさせられるのだった。勝手だとは思うものの、もっと彼らに近付きたいと願ってしまう自分がいる。自分でも驚くくらい、いつのまにか、随分と欲深くなってしまったらしい。
「つゆり殿が仰るなら、そう致そう」
「……お願いします」
「うむ」
 快くうなずいてくれて、それだけで胸の内側がじわりと満たされていくようだった。つゆりは、彼らにとって偉い存在になりたいわけではないのだ。おこがましいかもしれないけれど、もっと、仲良くなれたらいい、なんて思う。
 なんとなく隣に目を向ければ、幸村もこちらを見ていた。ぱちりと合った瞳に慌てて視線を外して、つゆりはごまかすように温かいお茶をひと口すすった。




柔らかな眼差し

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