刺客が出たという話はどこから漏れたのか瞬く間に広まり、翌日の城内は緊張や不安がない交ぜになった空気が重苦しくたれ込めていた。
 佐助や政宗に仕える忍たちがどのような情報をあの間者から聞き出したのか、なおもつゆりは教えてもらっていない。政宗は今、重臣たちや幸村を集めて軍義を開いている。
 時計がないため定かではないけれど、もう二時間以上は話し合いが続いているようだった。

 手を見つめる。つゆりの射る矢は、彼らの力を打ち消してしまうのだと、政宗たちは云った。
 ――それならば、私自身が彼らといっしょに居ることで何らかの害になることはないのだろうか。
 考えても答えなど出なくて、今は問いかけに応じてくれる人たちもいない。こう時間をもて余してしまうと、余計なことまで頭に浮かんでくる。
 ふと、生温い風が雨の薫りを運んできた。
 つゆりはそれに誘われるように立ち上がる。外に出たら、少しは気分転換になるのかもしれない。
 傘を手に部屋を出た。軍議が行われているからか、長い廊下はどこまでも静まり返っていて、一種の息苦しさを感じた。逃げるように、足早に城を抜け出る。
 守番の人に咎められるかとも思ったが、お出掛けですかと尋ねられただけで容易に城から出ることができた。供を付けるよう進められもしたけれど、ただの散歩だからと断り歩き出す。
 幸村は、つゆりが案ずることなどない、と諭してくれた。考えすぎだということはつゆりもよくわかっている。ただ疑心暗鬼になっているだけだ。
 それでも、不安は拭えなかった。このまま傍に置いておいたら本当に力を失いかねないと、そう、気味悪がられたら。
 傘の柄をぎゅっと握りしめて、ぬかるむ道を歩いていく。嫌な考えを蹂躙するように、雨の音だけを耳に聴きながら。足を踏み出すたびに泥が小さく跳ねた。
「おめえさん、見ねえ顔だな?」
 イントネーションが特徴的な、まだあどけなさが残る声だった。つゆりが顔を上げると随分と背の低い少女が不思議そうにこちらを見上げていた。なにやら大きなハンマーのようなものを後ろ手に引きずっている。
「あ……」
「なにかあっただか? ひどく暗え顔さして」
 まさかこんなにも親しげに話しかけてくるとは予想もできず、唖然とする。なんの返事も返さないつゆりに気を悪くすることもなく、彼女は屈託なく笑った。
「あ、驚かせちまっただか。安心するべ。おらはいつきって云うだ」
 耳の上で束ねられたふたつのみつ編みが、透き通った銀色に揺れる。
「おめえさんにも名前があるべ?」
「え、あ、つゆり……です」
「つゆり? どっかで聞いたことある気がするだが……まあ、いいべ」
 けろりとそう云うと、彼女、いつきは続けた。
「で、なしてこんなところ歩いてんだべか」
「いえ、ただの、散歩で、」
「ならいいだ。浮かねえ顔して、家出じゃあねえかと思ったべ」
 身体つきから見てもまだ10歳を越えたばかりくらいと思えるが、その溌剌とした喋りは年相応には感じられなかった。少なくとも、つゆりには妙に大人びて、しっかりしているように映った。
「じゃあな。おらはこれから年貢の延納を頼みにいかなきゃならねえ」
「……年貢? 伊達さんに、ですか」
「つゆりは青いおさむらいを知ってるだか?」
 ずるずると大きなハンマーを引きずりながらつゆりの横を通りすぎようとしたいつきが立ち止まった。
「少し、お世話になっていて」
「ならいっしょにいくべか」
「いいんですか?」
「村のためとはいえ、やっぱしひとりで殿さんに談判しにいくのはこころぼそかっただ」
「村のため……ですか」
「雨神様が来てくだすったとかで、やっとこ雨さ降ったけども今年はどうしたって凶作だべ? 決められた年貢ぜんぶ納めたらおらたちがのたれ死んじまうだ。村のみんなのためにも、なんとか延納させてもらえねえかと思ってな」
 こういうのは早いうちにお願いしたほうがいいべ、と強い意志のこもった瞳をたたえていつきは歩き出す。その後も、城へと向かいながらいつきはつゆりにいろんな話をしてくれた。
 ウカノメという女神から武器を授かったこと。戦で村が焼き払われたこと。自分が大将となって一揆を起こしたこと。政宗が、その手で平和な世をつくると云ってくれたこと。
 つゆりには決して計り知れない壮絶な経験が、幼い小さな背中には深々と刻み込まれていた。村ひとつをその身に背負い、自分たちより高い身分の大名に立ち向かうのは、どれほど恐ろしいことだっただろう。
「なしてそんな顔するだか」
「す、すみません……」
「やっぱし、なにか嫌なことがあっただな?」
 おらでよければ聴いてやるべ、と明るい声が手を差し伸べてくれる。けれど、自分などよりも重たい現実を知っている幼い彼女に、取るに足らない相談に乗ってもらうことは憚られて、つゆりはゆるゆると力なく首を横に振った。
「……いつきさんが抱えてきたものに比べたら、私の悩みなんて、本当に些細なことで」
「そんなことないだよ。この世で一番不幸じゃなくちゃ弱音吐いちゃいけねえだか? ちげえべ?」
 口調を強めた的確な指摘に、つゆりはまるでお母さんにでも叱られたような気分になった。こんな小さな子に諭されて、情けないと思うと同時に、どこか温かい気持ちか胸の中をたゆたう。
 今さっき出会ったばかりだというのに、こんなにも親身になってくれるなんて思いもしなかった。きっといつきの優しさとか強さとかそういったものがそうさせるのだ。村人がいつきを慕って一揆にまでついていった理由がよくわかる。
「なんでも話してけろ、つゆり」
 さっきとは裏腹に穏やかな声音が云う。たぶん、友だちってこういう感覚なのだ、とわけもなく思った。
「た、例えば、」
「なんだべ?」
「自分といっしょに居たら、力がなくなってしまうかもしれないって判ったら、どうしますか」
「もうちょっと具体的に云ってけろ」
 例え話という前提ごと否定してそう促される。迷ったけれど、ここまで云ったのだからと、つゆりはちゃんと説明することにした。
 もしもいつきさんが婆娑羅を持っていたとして、私がその力を奪ってしまうかもしれない人物だったらどうしますか。
 ことばはそう置き換えた。
「なしてそんなこと思っただか? 杞憂だべ」
「杞憂、ですか?」
「もしもじゃなくて、おらもその力さ持ってるだよ。でもなーんも感じねえ」
 えいさっ、と声を上げていつきはその手に持っていたハンマーを振り下ろした。瞬間、叩き付けられた地面がバリバリと音を立てて凍りついていく。
「このとおり、心配要らねえだ」
「……すごいです」
「みんな特別に神様から選ばれた者だべな。授かった力がそう簡単に失くなるわけねえ」
「よかったです。……ありがとう、ございます」
「このくらい朝飯前だべ」
 夏の小道に不自然に現れた氷を踏みつけながら進む。ぱきりとそれが割れる音を聴くたび、悩みの種も壊れ消えていく。
 そうだった。今までいっしょに居ても大丈夫だったのだから、この先もきっと平気なはず。こんなにも簡単なことだったのに。
「それと、その『いつきさん』ってえのやめてけろ。かたっ苦しいのはなしだべ」
「じゃあ、いつき、ちゃん」
「それがいいだ。……さあて、城が見えて来たべな」
 にっ、と悪戯っ子のような笑みを浮かべて、いつきは大きな瞳で前を見据えた。
「門前払いくらっても強行突破だべ!」
 そう意気込むいつきは頼もしい。

 門の側まで行くとこちらに気付いたらしい守番の者が、あ、と小さく声を上げた。おそらく強行突破は必要ない。
「雨神様、筆頭たちが探してましたぜ」
 いつ見ても伊達軍兵士の風貌は怖いけれど、もう竦み上がるようなことはない。小十郎同様にみんな優しい人ばかりだということはつゆりももう知っていた。
「わかりました。ありがとうございます」
 軽く会釈をする。政宗たちが探してくれているということは、もう軍議が終わっているということだ。
「あー!」
「なんだ、どうした」
 突然大声で叫ぶいつきに守番が顔をしかめる。
「つゆりって雨神様の名前だっただか!」
「あ? ああ、そうよ。この方が雨降らしに来て下さった雨神様だ」
「なして云ってくれなかっただつゆり!」
「え、あ、ごめん、なさい」
「城に行って雨神様に会えたらお礼云おうってずっと思ってただ! それがおめえさんなんだべな?」
 確認するように問われて、恐る恐るうなずく。こんな人間だったと知って、幻滅させてしまっただろうか。そう思ったのも束の間、いつきの手袋に覆われた両手がぎゅっとつゆりの手を掴んだ。
「ありがとうな、つゆり。おめえさんが来てくれなかったら村は今ごろ枯れ果ててただよ」
「……私こそ、遅くなってしまって、ごめんなさい」
「謝ることなんかなんもねえべ。村のみんなも感謝してるだ。堂々としててけろ」
「……ありがとう」
 無邪気に向けられた笑顔はまだ子どものそれで、ひどく無垢だった。すかすかのこころが満たされるような感覚を覚える。
 それでも、こんな彼女も血を見るのだ、この世界は。
「ところで、雨神様。その娘御はどうしたんですかい?」
「おらか? おらはその筆頭に用があって来ただ」
「えっ」
「入れてもらえませんか……?」
「いやいや、いくら雨神様の頼みでも駄目ですよ!」
「よしつゆり。強行突破だべ」
「ま、待て待て。わかった、いま筆頭に訊いてやるから」
 慌てて彼はもうひとりの守番を政宗に遣わせる。待つこと十数分で政宗からのこと伝ては届いた。
「通せだそうだ」
 よかったな、と門を開けてくれる。そこで待っていてくれたのは小十郎だった。いつも以上に凄まじい眼力にびくりとつゆりの肩が跳ねる。
「どこほっつき歩いてやがった。勝手に抜け出すんじゃねえ」
「ごっ、ごめんなさい……」
「……まあいい。それにしても、久しいな、小娘」
「おめえさんも元気そうだな。頼みがあって来ただ。青いおさむらいに会わせてけろ」
「政宗様はまだ軍議中だ」
「……まだ、終わっていないんですか?」
「ああ、おまえにも話がある」
 嫌な話じゃなければいいけれど、とつゆりは気づかれないように小さく息を吐き出した。

 軍議がなされている部屋まで小十郎が案内してくれる。相変わらず城内は静かだ。
「その軍議ってやつはいつ終わるだか?」
「さあな」
「待ってたら日が暮れちまうべ。暗いなか帰れって云うだか?」
「政宗様がなんとかして下さるだろう」
 いつきを宥めると小十郎はその部屋の向こうへと声をかけた。
「政宗様、つゆりが帰って参りました」
 通せ、と政宗の低い声が帰ってくる。襖を開けると小十郎はつゆりに中へ入るよう促した。
「行け。俺はこいつを客間へ送り届けなきゃならねえ」
 またあとでな、といつきが笑う。
「わ、わかりました」
 失礼します、とひと声かけて部屋へ踏み入った。襖をきっちりと閉めて前に向き直る。
「Oh, 来たな。こっちこい」
 にい、と意味ありげな笑みを浮かべながら政宗が手招きした。つゆりは空いている場所に正座をして身構える。一体、なにを云われるのだろう。
「どこ行ってたのつゆりちゃん」
 佐助が云う。ちょっと怒ってるのがわかって、つゆりは反射的に俯いてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「無事ならいいんだけどさ。あんまり心配させないでよね」
「そうでございますぞ、つゆり殿」
 幸村にまでたしなめられてしまっては頭も上がらない。かすがのときのこともあって、勝手に離れるなと云われたというのに、それを破ったのはつゆりだ。
「どうせ小十郎にも叱られてんだ、説教はそのくらいにして本題に入るぜ」
 小十郎にも叱られたことを見破られ、つゆりの身がさらに縮こまる。政宗は小十郎のことを本当によくわかっているのだ。もしくは普段から政宗も彼に叱られているのかもしれない。
「一連の騒動が織田軍の明智の仕業だということが判った。甲斐や奥州だけでなく、各地に雇い忍を飛ばしてるみてえだ」
 明智。つゆりも聞いたことのある名前だった。織田信長を本能寺で打った、明智光秀のことだ。この時代ではまだ、織田信長は生きているのか。
「なにやら裏でこそこそと手回しを始めているらしい。そこで、織田軍の準備が整う前にさっさとオレたちが攻め込んでやろうっつう話だ。You see?」
 こくり、とつゆりはひとつうなずく。そして思うのだ。彼は簡単に云うけれど、自分はいま、とんでもない場面にいるのではないだろうか。つゆりの知らないこの世界の、歴史が動きだそうとしている、恐ろしい瞬間に。
「それで、ほとんど決定事項だが一応確認とろうと思ってな。真田たちと共に西へ行ってほしいんだが、いいか?」
「西……ですか?」
「左様。四国の長曾我部殿にお力を貸して頂けるよう頼みに行くのでござりまする」
「その対価が、四国に雨を降らすこと。あっちだってだいぶ困ってるはずだからね。……まあ、長旅になるし、つゆりちゃんが嫌なら甲斐に残って貰っても構わないけど、」
 佐助はその先を云わなかったが、交渉が困難になるのだということはつゆりにもわかる。
「私にできることなら、なんでもします」
 それを知ってて断るなんてできるはずがないではないか。それに、つゆり自身が幸村や佐助といっしょに居たいと、思っているのだ。
「Good, よく云った」
「なれば早速、文をお送り致そう。佐助、行ってくれるな」
「任せとけって」
 どくどくとつゆりの鼓動が忙しなく脈を打つ。ここから西まではどれほどかかるのだろう。いくつ見知らぬ土地を通って、どんなものを目にするだろう。これが戦のためでなかったら、楽しめたのかもしれない、なんて思う。
 戦、だ。戦争が、始まろうとしているのだ。
「……あの、伊達さん」
「どうした」
「あとで、いつきちゃんのお願い、聴いてあげて下さい。私からも年貢の延納をお願いしたいです」
「Ah? いつきはそれを頼みに来たのか」
「はい」
「そう、か。農民も大変だからな。考えておく」
「……ありがとうございます」
 快い返事にほっとしながらも、今なら云えるかもしれないとつゆりは続けて口を開く。
「それから……初対面で、無礼なことを云ってしまって、すみませんでした」
「今さらじゃねえか」
「一応、謝っておきたくて」
「律儀だな。云っただろ、からかっただけだ」
 政宗はそう流すと、ぽん、とつゆりの頭に手をついて立ち上がった。
「軍議終了、解散だ。戻っていいぜ」
 部屋を出ていく青い背中を見送ってから、幸村と佐助に続いて立ち上がる。つゆりが思っているよりもずっと、物事というのは簡単で、単純なものなのかもしれなかった。




氷を砕くように

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