光が差し込む。
 目が覚めて、一番初めに幸村の視界に入ったのは、すぐ隣で眠るつゆりだった。
 驚くことに幸村の腕は、その華奢な身体にしっかりと巻き付いている。しばらくはなにが起きているのかわからず、ただ茫然とつゆりの寝顔を見ていたのだが、ことの状況を理解すると共に飛び起きた。
 どうしたことだ、これは。
 かああ、と熱い血液が耳の裏を流れていくのを幸村は感じた。なんと、なんと破廉恥な。
 なおも眠りつづけるつゆりを起こさぬよう、慎重に布団から抜け出る。
 寝起きの頭で昨夜の出来事を思い出そうとするも、政宗と飲み比べを始めたあたりからの記憶がすっかり抜けており、自分がいつ眠ってしまったのかも覚えていなかった。
 静かに寝息をたてるつゆりを見下ろす。
 自分はなにか、粗相をやらかしてはいないだろうか。ないとは思うが、無体を働いたりは。いや、しかし覚えていないのだ。ないとも云い切れない。考えれば考えるほど幸村の心の臓は忙しなく脈打つ。ひどく顔が熱い。
 ただ、少し前からずっとその細くて壊れてしまいそうな体躯を、この腕に閉じ込めることはできぬかと、幸村がそう思っていたのも確かだった。そうでもしていないと今にも彼女は消えてしまいそうで。
「あら、起きたの旦那」
 急にすとんと降りてきた声。予期せぬことに幸村の心臓は大きく飛び上がった。どくどくと性急に血液が駆け巡る。
「さっ、ささっ、佐助……!」
「いやあ、よく寝てたねえ」
「こ、これ、は、一体ど、どう」
「落ちついてよ旦那」
「おおおお落ちついていられるか!」
 まあまあ、と苦笑する佐助の肩を幸村は思わず掴んだ。落ちついてなど、いられるはずがない。つゆりも幸村のように、昨夜の出来事を覚えていないというのならまだ話は別であるが、彼女は酒の一滴だって飲んではいないのだ。
「大丈夫だって、旦那」
「な、な、なにが大丈夫なものか! 俺は、俺は」
「そんなに心配ならつゆりちゃん起こして訊いてみたらいいじゃない」
「そ、そそそのようなこと、恐ろしくてできん!」
 あれだけ火照っていた身体から、幸村はさあっと熱が退いていくのを感じた。どうしてこんなにも不安なのか、自分でも驚くほどだ。
「じゃあ云うけど、旦那が心配するようなことはなにもないよ。旦那が寝ちゃって、つゆりちゃんが傍に付いてた。それだけ」
「そ、そそそれだけでは、あ、あのようなことにはならぬだろう!」
「知らないよ。俺様が見たときはもうふたりともぐっすり眠ってたけど」
 どうせ旦那が寝惚けて蒲団に引きずり込んだんだろ、と面倒臭そうな口調で佐助が云う。幸村はとうとう顔面蒼白となった。自分はなんてことをしてしまったのだ。
「ほら、大きな声出すからつゆりちゃん起きちゃったよ」
「なっ、」
 反射的に振り向く。起き上がったつゆりの、夜の色をした瞳が幸村をはたりと映した。緊張とか疚しさとか、そういったものがない交ぜになって、幸村はとっさに目を逸らしてしまう。
「おはよう、つゆりちゃん」
「……あ、おはよう、ございます、佐助さん。その……幸村さんも」
 つゆりはぐしぐしと赤子のように目もとを擦ると、次は跳ねた髪を手櫛で撫で付けた。その仕草は平生のつゆりとはひどく掛け離れていて、幸村はなんとも不思議な心地になる。無防備なその姿に、また少し気を許して頂けたのかもしれない、と。
「……幸村さん……?」
 疑問を含んだ声で名を呼ばれ、ぎくりと幸村の胸の内が跳ねた。挨拶を返さないことを不審に思ったのだろう。惚けている場合ではない。
「そ、その、つゆり殿」
「はい……?」
「もっ、申し訳ございませぬううう!!」
 びくりと跳ねたのは今度はつゆりの肩だった。どうしたんですか、と狼狽えるつゆりに幸村の罪悪感はつのるばかりだ。
「そ、某、昨夜はつゆり殿にそ、そのご無礼を働き……!」
「あ、い、いえ……私のほうこそ、ごめんなさい」
「な、なにゆえ、つゆり殿が謝られるのでございまするか!」
「幸村さんが寝惚けてたの、ちゃんとわかってます。私がそのまま、寝ちゃったのが悪い、ので……」
「な、なにを仰る! つゆり殿に非などはひとつも……!」
「はいはい、そこまで」
 佐助が幸村のことばを遮った。このままでは埒が明かない。
 幸村は我に返ると同時に、ここが政宗の城だということを思い出す。一体自分はどうしたというのか。なにかがおかしい。
「もうすぐ女中さんが来る頃だと思うから、旦那はとりあえず俺様に宛ててくれた部屋に行こうか」
「そ、そうか。別に部屋を用意して下さったのだな」
「本来ならつゆりちゃんが別の部屋になるはずだったんだろうけどねー」
「そう、だな……」
 ことの重きを改めて知る。男女が、同じ部屋で、ともに寝るなどと。思い出しただけでも顔から火が出そうだ。
「で、では、失礼致す」
 まともにつゆりの顔を見ることもできないまま幸村は踵を返した。また後でね、なんて気軽に話しかけられる佐助の、なんと羨ましいことか。己のふがいなさを呪いながらも幸村は足早に部屋をあとにした。

 閉じられた襖に、つゆりは心底ほっとした。それでもまだ、脈が妙に上がっていて落ち着かない。
 袴ならば自分で着ることができるからと、持ってきたそれに袖を通しながら、さっきまでの会話をひとつひとつ思い返す。
 たくさん、謝らせてしまった。その間、幸村の目を、まともに見ることもできなかった。だから、幸村がどんな表情をしていたのかはつゆりにはわからなかったけれど、とにもかくにも、しばらくは顔を合わせられそうにない。
 つゆりは昨夜のことをひどく後悔した。
 無理やりにでもあの腕から抜け出すべきだったのだ。なんなら、佐助の手を借りたってよかった。もしくは、どうして幸村より先に起きられなかったのかと。
 思い出すたびに顔が熱くなる。背に回されたしなやかな腕も、呼吸に合わせて上下する胸板も、耳もとで零れる息づかいさえ。
 どくどくと頭蓋に響く心音をどうにか静めようと、つゆりは心臓のあたりをぎゅ、と抑え込んだ。どうしてこんなにも不安で、苦しいのだろうか。
「雨神様、失礼致します」
 慎ましやかに開いた襖。顔を上げれば女中と視線が合った。途端、彼女はこれでもかというくらい目を見開くと、慌てたようにつゆりの傍へと駆け寄る。
「ど、どうされたのですか! どこか、お加減でも悪いのですか?」
 一瞬、なんのことを云っているのかとつゆりは思わず首をかしげた。けれど、左胸を抑えている自分が彼女には苦しそうに見えたのだろうかとすぐに気が付く。
「いえ、大丈夫、です」
「し、しかし……」
「少し、考えごとを、」
「かように思い悩むことがおありなのですか?」
「大したことでは、ないので」
 大丈夫です。つゆりは再度そう返して、脱ぎ捨てたままだったセーラー服を畳む。昨夜は寝衣に着替えもせず、そのまま眠ってしまったものだからひどく皺が寄っていた。そんなスカートのプリーツをひとつひとつ整えながら、つゆりはずっと考えていた頼みごとを切り出してみる。
「……あの、的場を、貸してもらうことは、できますか」
 的場、というのは弓道場のことだ。この時代ではそう呼ぶのだと武田弓隊の隊長に教えてもらったのだった。
「的場、ですか」
「……はい」
「片倉様にお訊きしないと、私にはなんとも……」
「そうですか、」
「はい。管理しておられるのが片倉様なのです」
 申し訳ございません、となぜか謝られてしまって、つゆりは慌てて、いえ、と首を振った。ありがとうございます、とも付け加えて。
 きっちりと制服を畳んでから、女中が持ってきてくれた桶で顔を洗って、そのあと、部屋に運ばれた朝餉を頂いた。飴色のお味噌汁に沈む葱が存外甘く、舌の上で柔らかに溶けてしまったのが印象的だった。

 幸村と佐助はともに居間で朝餉となったが、肝心の政宗は姿を見せなかった。
「二日酔いでな、まだ寝込んでいらっしゃる」
 小十郎が云う。
「なんと、左様にござるか……」
「ああ。だが、日が高くなる頃には起きてこられるだろう」
 真田と手合わせするのを楽しみにしていたようだからな、と小十郎はその口元に僅かに笑みを浮かべた。
「それは光栄にござる」
 幸村も同じように薄く笑った。これ以上嬉しいことはない。政宗は本当に己を認めてくれているのだと、幸村は今さらながらに痛感するのだ。
 朝餉を終え、鍛練のために庭へ出た。槍がいつもよりも重く感じるのは、きっと雨のせいだけではない。今朝のことが原因なのは考えなくとも明白だ。それを振り切るかのごとく、幸村は一心に空を斬る。
 じわりと身体が温まってきた頃、不意に見知った蒼が視界に入った。
「政宗殿、」
「Oh, 邪魔しちまったか」
「いえ。政宗殿は、もうお身体は宜しいので」
「まあな」
 情けねえところを見せちまった、と政宗は苦笑気味に零す。
「それが、某は飲み比べを始めたあたりからの記憶がほとんど抜けておりまして」
「なんだ、アンタもknock outだったってわけか」
 南蛮語の意は幸村には汲めなかったが、云いたいことはどことなく理解できた。ようするに勝負はおあいこであるということなのだろう。
「どうだ、ここで決着を付けるってのは」
「ようございますな」
 六爪を構える政宗に続き、幸村も二槍を構える。全身の血が騒ぐのはもはや抑えられない。
「本気で来いよ真田幸村……!」
「望むところ……!」
 ほぼ同時に飛び出し刃を交えた。キン、と鋭く弾ける金属音に鼓動が高鳴る。滾るのだ、全身が。
 力強い刀裁きは容赦なく幸村に降りかかる。それを交わしては受け流すも、なかなか幸村からの攻撃の隙を与えない。
 やはりお強い、また腕を上げられたのだろうか。
 政宗とこうして刃を交じ合わせるたびに幸村は己の未熟さを知るのだ。
「どうした、迷いが見えるぜ」
 に、と不適な笑みがその余裕をありありと幸村に見せつけた。焦りが募る。しかし、このままでは政宗の思うつぼだ。
 そう思い踏み込むも、なかなか決定打は与えられない。だが、政宗にだって隙がないわけではないのだ。両者一歩も譲らない攻防があたりに雷火を散らしながら続いていた。

 つゆりは小十郎を探していた。彼に話しかけるのは些か勇気がいったが、弓とどちらをとるかと比べたら、たった一時の恐怖など安いものである。
 女中に話を聞いたところ、もう幸村たちも朝餉を終えている頃なので、外の畑にいるかもしれないとのことだった。
 畑? とはじめつゆりは首を傾げたものの、たしかに城に通された際に大きな畑を見たような気がする。
 傘を差してつゆりは外に出た。雲がひどく厚いせいか、昼前とは思えない薄暗さだ。空を見上げれば、その裏に鮮やかな青があることなど忘れてしまいそうなくらい、深く濃く曇っている。
 そんな雨空の下、広い背中をひとつ見つけた。雫の玉を乗せては弾く青々とした葉の傍らに膝をつき、まるで彼らの淡い声に耳を澄ましているようだった。
 つゆりはまだあまり小十郎のことも政宗のことも知らなかったが、その表情がとても穏やかで優しいものだということだけは見てわかった。
 さっきまでとは別の意味で、どうにも声をかけるのは憚られ、また別の時間にでも出直そうとつゆりは踵を返す。
「おい、」
 城のほうへと足を踏み出したところで、後ろから低い声が追いかけてきた。気付かれていたのだ。つゆりが足を止めて向き直ると、小十郎はその腰を上げた。
「なにか用があって来たんじゃねえのか」
 もっともな問いかけだ。人に頼みごとをするのだからと、つゆりは気持ちだけ居住まいを正す。
「はい。……あ、あの、的場を、使わせて頂けませんか」
「的場? 構わねえが……」
「弓の練習が、したいんです」
「そういや武田の弓隊の指南役は雨神だと聞いたことがあるな」
 記憶を手繰りよせるように目線だけを空に向けて、小十郎が呟いた。つゆりは蛇がするすると地を這うような奇妙な気持ちに襲われる。そのうち有らぬ噂までひとり歩きしなければいいけれど。
「弓はあるのか」
 端的な質問に嫌な思考から掬い上げられた。いけない。つゆりは自分に云い聴かせる。悪いほうに悪いほうにと考えてしまうのは、よくない癖だ。
「部屋に、自分のものが」
「なら、取りに戻ってそのまま行くか」
 歩き出した小十郎についていく。ふと、後ろを振り向くと、しっとりと濡れた柔らかな土には等間隔に青々とした緑の葉が並んでいた。嬉しそうに雨を受け入れるその野菜たちに、つゆりはほんの少しだけ、自分に価値が見いだせたような気がした。
「そいつらは強い陽射しの中を生き抜いた野菜たちだ」
 つゆりの視線の先に気づいて、小十郎が云う。
「今年は凶作だが、生き残ったやつらはしたたかだ。枯れたものの分まで旨味を蓄えていやがる」
「確かに、とても、美味しそうです」
「今朝の、味噌汁の葱」
「……え?」
「あれもここの畑のものだ」
 この城で使われる野菜のほとんどはここで作っている。そう付け加えて、小十郎は再び歩みを進めた。歩幅が大きな彼のあとをつゆりは自然と小走りになって追いかける。
「あの、」
「まだ何かあるのか」
「い、いえ、その、美味しかった、です」
「あ?」
「お味噌汁の葱、とても」
「……そうか」
 それはお世辞でも何でもない、ただ率直な感想だった。どこか嬉しそうに口元を緩めた小十郎に、あの野菜たちを本当に大切に育ててきたのだろうことがうかがえた。見かけに寄らず優しい人なのだろうな、とつゆりは失礼ながらもそう思わずにはいられなかった。




それぞれの朝と

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