一夜だけ与えられた部屋の縁側で、つゆりは足を投げ出して雨の音に耳を傾けていた。
 男性か女性か区別の付かないような中性的な容姿や、どこか諭すような優しい物云い。上杉謙信はとても綺麗な人だった。
 謙信は一晩と云わずにもう少し長居すればいいと云ったが、つゆりたちは奥州へ行くということもあって明日の昼前には春日山城を出ることに決めた。
 ただ、佐助だけは先に米沢城へ向かっている。用ができたため到着が遅れるという主旨の手紙を届けるためだそうだ。伊達政宗は幸村にとってただ一人の好敵手だとつゆりも教えられたけれど、やはり相手は一国の主ということなのだろう。
「眠らなくて良いのか」
 背後から掛けられた声にゆるやかな鼓動を保っていたつゆりの心臓が飛び跳ねた。忍という職業はつくづく人を驚かすことが得意であるらしい。振り返れば暗がりの中でふたつの眼と出逢う。
「かすがさん、」
「昼間に寝てしまって眠くないのだろうが、また明日が辛いぞ」
「……そうですよね」
 でも、あともう少しだけ。こころの中で密かに呟く。夜は好きだ。静かで落ち着く。特に、こんな雨の日は。
「しかし、本当に雨神なのだな」
 空から落ちる雫にかすがはその目を細めた。最初は信じていなかった、というような口振りにどう返したら良いのかわからず、つゆりは口をつぐんだままだ。
「謙信様もお喜びだ。感謝するぞ」
 そう笑みを漏らすかすがに、ただ小さく首を横に振った。この時代に来てからこうやって感謝のことばを貰うことが増えたけれど、つゆりがそれに慣れることはない。理由はたぶん、みんなそれぞれ別の想いを抱えているからだ。
「お前はあまり、感情を表に出さないな」
 つゆりはどきりとした。佐助にも以前同じことを云われたことを思い出す。そんな目、俺様でもしないけどね、と揶揄するように。今はどう思われているのだろう。
 しかし、次にかすがから降ってきたことばは思いも寄らないものだった。
「感謝されたら、素直に喜べばいい」
「……え」
「何を戸惑っているのかは知らないが、そうして貰ったほうがこちらも嬉しいというものだ」
 それにしても、とかすがは独り言のように続ける。
「私も見習いたいものだ。忍のくせに感情的になりすぎるそうだ、私は。佐助やお前と、私は一体何が違うのだろうな」
 それは始めから返事などは期待していない口調だったけれど、ほとんど反射的につゆりは口を開いていた。
「全部、違うと思います、よ」
 さっきからずっと黙っていたせいか、上手く声が出ない。突然喋り出したつゆりにかすがはその目を僅かに見開く。
「全部?」
「生まれた境遇とか、経験してきたこととか、そういうもの、全部。だ、だから……私は、忍のことはよく判りません、けど、かすがさんは、そのままで良いんだと思います」
 例えば、同じものを見ても感じ方はその人その人で違うから。無理に繕う必要なんて、きっとない。
「……そうだな。つゆりも、自分らしく生きろよ。では、私は仕事があるのでな」
 早く寝るんだぞ。そう云い残してかすがは部屋を出て行った。つゆりはふ、と短く吐息した。再び訪れた静寂にどこかほっとしている自分がいる。
 ありのままの自分を見失ってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。周りと合わせることに苦痛を感じるようになったのはいつの頃からだっただろう。
 自分には、上手に生きる才能というものが恐らくはないのだ。かと云って死ぬ才能なんてものも持ち合わせてはいないらしいのだけれど。
 つゆりは深く息を吸い込んだ。もう少ししたら丁寧に敷いてくれた蒲団に入ろう。雨が混ざった空気は昼間の日照りの時よりも随分と冷たくなっていた。

 朝、女中に起こされて目が覚めた。いい加減、自分で起きられるようにならなければいけないなとつゆりはまだ回り切らない頭で思う。もともと朝は得意ではないけれど、この時代の朝は殊更早い。
 しかし、昨夜は夜中に何度も起きてしまったせいかまったく眠った気がしない。瞼はひどく重かった。環境が違うと思うような安眠がなかなか得られないことはもう知っている。それでも馬の上では寝られたのだから、その基準は自分でもよくわからない。
 欠伸を噛み殺して寝衣からセーラー服に着替える。もの珍しいのだろう、女中が時折窺うように目線を向けるものだから、なんだか居心地が悪くてつゆりは無意識に手を早めた。
 用意してもらった桶で顔を洗って、差し出された手拭いで水分を拭き取る。
 こんな風に世話を焼いてもらうことが当たり前になってしまった自分が怖い。この世界に、この世界の人たちに依存してしまいそうで。
「朝餉の準備ができておりますので居間へご案内致します」
「あ、ありがとうございます」
 つゆりは小さく頭を下げる。感謝されることも増えたけれど、自分から感謝することも増えた。これは多分、良いこと。
 いえ、と慎ましやかに微笑まれると少し救われたような気分になった。かすがが云っていたことはきっとこういうことなのだ、と昨夜のことを思い出す。
「おはようございまする」
 陽が昇る少し前くらいには起床して、鍛錬ももう済ませているのだろう。幸村は眩しいくらいの爽やかさでいつもと変わらずつゆりに挨拶をくれた。つゆりとは大違いだ。
「おはようございます」
「よく眠られましたか」
「はい、」
「ならばようござりました。昼に一度寝てしまわれたゆえ、寝付けなかったのではないかと思い」
 図星を突かれてつゆりはそれきり黙り込んでしまう。幸村はさして気に留めていないようだったが、つゆりは内心落ち着かなかった。
 たしかに自分はそういったことがあまり表情には出ないのかもしれない。だけど、同時に声も出なくなるのだ。否定も肯定もままならなくなる。
 佐助のようにもっと器用な受け答えが出来たら、とその度によく思う。でもつゆりが佐助の真似をしたところで、それはつゆりでも佐助でもなく中途半端な偽物になってしまうのだろう。
 手を見つめる。これが、私だ。つゆりは思う。変わっていかなければならないところもたくさんあるけれど、自分が自分でいなければ誰が自分になるというのか。
「つゆり殿? どうかされたのでございまするか?」
「弓を、引きたいと思って」
 弓はつゆりのアイデンティティーのひとつだ。何の気なしにそう答えると、幸村は数秒考えるように目線を他へやった。
「そう仰られると、甲斐を出てから一度も弓を引いてはおりませぬな」
「はい。甲斐では毎日、練習させて頂いていたので、何だか、変な感じで」
「今日はもう時間がないかもしれませぬが、奥州にて場を借りたらいかがでござりましょう」
「借りられるんですか、」
「政宗殿ならばお貸し下さると思いますぞ」
 伊達政宗はどんな人なのだろう。奥州を治める殿様で、幸村の唯一無二の好敵手。きっと、素敵な人だ。つゆりはなんの疑いもなくそう思った。

 朝餉を頂いて落ち着いたら、つゆりたちは出発の準備に取りかかる。外に出る際、雨に濡れて身体を冷やしてはいけないからと謙信がつゆりの肩に綺麗な羽織を掛けてくれた。
「あ、あの、」
「きていきなさい。このえちごにじうをもたらしてくれた、れいとでもして」
「……あ、ありがとう、ございます」
「れいをのべるのはこちらのほうです。このおんはわすれません」
 澄んだ透明の笑みを向けられて、つゆりは俯きそうになる。この人のほうがずっと、神様らしい。
「お役に立てて、良かったです」
 けれど、ここで黙ったり、はぐらかしたりしてしまったら今までとなにも変わらないのだ。
 ちょうど、かすがが幸村の馬を引いて来た。では、と謙信が幸村に向き直る。
「きをつけてゆくのですよ、わかきとら」
「おこころ遣い感謝致しまする、謙信公」
「かいのとらにも、ふたたびあいまみえることをたのしみにしているとつたえてください」
「必ずやお伝え致しまする。お館様もお喜びになることでしょう」
 幸村が馬に乗り、つゆりを引き上げる。この動作もだんだんと慣れてきた。ギギ、と重たい音を鳴らして門が開く。
「わかきふたかたに、びしゃもんてんのかごぞあれ」
「……有り難く」
「あめのかみにこのようなことをいのるのはおかしきことかもしれませんね」
「いえ、ありがとうございます」
 毘沙門天がどんな神様なのかつゆりにはよくわからなかったが、それでも、こうしたことばを貰えることは光栄なことだと感じる。
 同時に、この時代の神への信仰心の厚さも垣間見た気がした。云ってしまえばそれを逆手に取ってつゆりはこうした待遇を受けている。幸村と佐助は知っているにしても、やはり騙しているような罪悪感は拭えない。
「達者でな」
 謙信の隣に控えるようにしていたかすががひと言そう云った。かすがさんもお元気で、と返すと僅かに口角を上げて微笑む。揃って美という文字が合う主従だ。
「では、」
「お世話になりました」
 幸村の合図で馬が地を蹴る。この瞬間だけはいつも怖くて、つゆりは思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。
「馬にはまだ、慣れませぬか」
「まだ、少し……」
「無理もありませぬな。日が変わる前には奥州に着きましょう。それまでの辛抱にございまする」
 肩越しに聴こえる、優しさが見え隠れした声。つゆりが慣れないのは馬の振動や衝撃だけではないのだ。この距離や体勢に、どうも心臓が落ち着かない。
 ほとんどこの身が雨に濡れないのも、また幸村の優しさのせいなのだ。




移りゆくひと色

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