ああ、これが殺気というものなのか。重く息苦しい空気に頭の隅でつゆりはそう思った。
 女の人の顔が歪む。佐助の表情はここからではわからなかったが、きっといつもと変わらず掴めない笑みを浮かべているに違いない。
「……猿飛佐助」
「久しぶりだな、かすが」
 名前を呼び合っているところを見るとふたりは知り合いらしい。それがいい関係なのか悪い関係なのかは今のつゆりの状況では判断しかねたが。
「つゆりちゃんも、勝手に旦那から離れちゃ駄目でしょ」
 つゆりに視線をやると、佐助はそう軽く咎めた。ごめんなさい。そう云いたかったのにすっかり怖じ気づいたつゆりの喉からは掠れた空気が漏れただけだった。
「それで、いたいけな少女を狙うなんて一体どういうつもり?」
「……隠しても無駄だぞ」
「なんのこと? いくらかすがの思ってることったって、はっきり云ってくれなきゃ流石の俺様でも、うわっちょっと!」
「黙れ!」
 黒く光る刃が飛ぶ。不意打ちの攻撃だと云うのに佐助は難なく避けて見せた。相変わらずつれないねー、なんて苦く笑う。そんな最中、ガサリと草むらの揺れる音がした。
「何事だ佐助!」
 緑を掻き分けて現れた紅につゆりを含めた三人ともが注意を向ける。幸村だ。つゆりと目が合うと、幸村は安心したようにつゆり殿、と名前を呼んでくれた。
「お、丁度いいところに。旦那! つゆりちゃんのこと頼むぜ!」
「う、うむ、あいわかった」
 そう返事が返ってくるや否や佐助は地を蹴って飛び出した。刃物が交わる甲高い音がこだまする。
「つゆり殿、こちらへ」
 いつの間にか近くまで来ていた幸村に手を引かれ、つゆりは得物が飛んでこない安全な場所へと移動した。
「怪我等、ありませぬか」
 草むらに隠れるようにしてしゃがみ込む。ひとつ頷けば、幸村が安堵の息をついた。
「ならばようございました。急に居なくなってしまわれたゆえ、心配しましたぞ」
 そう云って震える手を握っていてくれる。つゆりは強ばった身体がほどけていくのを感じた。人の体温は、こんなにも安心するものだったか。ひゅうひゅうと空気を細く行き来させていた喉も徐々に開いていく。ごめんなさい、とまだ掠れる声で謝れば、幸村は、無事ならそれで、と小さく笑った。
「それにしても、あれはかすが殿……。一体どうされたのか」
「あの人も、忍、ですか?」
「うむ。佐助とは同郷なのだとか」
 同郷。つまりは幼馴染みとも云える関係だというのに。つゆりはきゅっと唇を結んだ。自分の不注意のせいでふたりが戦っている。自分が、居るから。
「だからっ、その雨神を引き渡せと云っている!」
 かすがの、努気を含んだ声がこちらまで届く。見る限りでは佐助のほうが優勢だけれど、それでも彼が本気ではないことが伺えた。なにより、以前につゆりを攻撃した時の目の色と全然違うのだ。
 冷えきった視線を思い出して、つゆりは身震いをする。あれはたぶん、ずっと忘れられない。まあ、勘違いだったわけなのだけれど。
「越後が干上がろうがなんだろうが俺様たちには関係ないんで、ね!」
「くっ、薄情者め……!」
「まったく、なんで力ずくっていう選択肢しか頭にないのかね」
「どういう意味だ」
「国の状態が酷いってのは同情するけど、少しは冷静になれってこった」
 ぴたりとかすがの動きが停まった。眉間にしわを惜しげもなく寄せて、これでもかと嫌悪を露にする。
「頭を下げろとでも云うのか」
「そうそう。ちゃんとお願いすりゃあ考えてやらないことも」
「ふざけるな! 誰がお前なんかに!」
 攻撃が再開される。佐助さんも意地が悪いな、とつゆりは内心で呟いた。どうも佐助がわざと煽って楽しんでいるようにしか見えない。彼女も彼女で感情的になりやすい人なのだろう。
「違うだろ、俺様じゃなくてさあ」
「今度はなんだ!」
「だから、お願いする相手は俺様じゃないだろ、って」
 その瞬間、かすがと視線がかち合った。まさか目が合うとは考えてもいなかったつゆりは反射的に俯いてしまう。「まあ、そういうことだからさ」なんて、愉快そうな声が聴こえた。

「すまなかった」
 結局佐助に宥められる結果となったかすがは、幸村と隠れるようにして事を見守っていたつゆりにそう謝った。突然のことになんの反応も返せず、彼女もまた気まずそうに目を伏せる。
「春日山城に来てはくれないか」
 至って遠慮がちにそう零した。酷い干魃に謙信様がお困りなのだ、と付け加えて。
 しかし馬を走らせるのは幸村だ。あわよくば助け船を出してもらおうとつゆりが隣を見遣れば、つゆり殿の好きなようにと云われてしまった。
「……お役に、立てるか、わかりませんが」
「い、いいのか?」
「幸村さんと、佐助さんさえよければ、私は」
 かすがの金色の瞳が幸村に向く。躊躇うことなく首が縦に振られた。
「謙信公がお困りとあらば断る理由はござらぬ」
「……恩に着る」
 それはとても小さな声だったけれど、つゆりの耳にもちゃんと届いた。きっと、彼女はほんの少し不器用なだけだったのだ。
「いやあ、土地は潤うし、俺様たちは宿を探さなくて済む。まさに一石二鳥ってね」
「なっ、貴様、最初からそのつもりで……!」
「まさか引き留めておいてなんの持て成しもないとか云うんじゃないだろ?」
 佐助のわざとらしい云い回しに、かすがはことばを詰まらせる。幸村が慌てて佐助を制した。
「佐助、宿は別に探すゆえ、泊めてもらわずとも」
「遠慮すんなって、旦那。もともと俺様たちは奥州まで行くはずだったんだから」
「奥州?」
「竜の旦那は誰かさんと違ってちゃんと文を送ってくれたぜ」
「う、煩い! すまなかったと云っているだろう!」
 それにお前たちを見つけたのは偶然だったんだ、と声を上げるかすがに佐助は首を傾げた。
「偶然って、俺様たちのこと付けてたんじゃないの」
「お前たちを尾行して何になる。私はただ国周辺の偵察をしていただけだ」
「忍が云っても説得力の欠片もないね。大体、つゆりちゃんに会ったこともないのに」
「なにを云っている。とっくに雨神の噂は届いているぞ。紫陽花模様の赤い傘を差しているまだ若い女だと」
「なんと。政宗殿から文を頂いたときにも思ったが一体どこからそんな話が漏れたのだろうか」
 それはつゆりも不思議に思っていたことだ。甲斐の村人が知っているのは無理もないにしても、他国の人がそんな噂を聞くなんて。
 この世界の情報伝達速度が著しく速いだけなのだと思うことにしていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。自分の知らないところで自分の話をされているというのは、なんだか妙な心地だ。
「……誰から聞いたの、それ」
「商人が話していたのを聞いた。奥州の伊達もそれを知って文を寄越したんじゃないのか」
 それがどうしたんだ、と怪訝そうに眉を寄せるかすがに、佐助はいや、と低く呟いた。過保護に匿っているわけではないにしても、刺客のこともあったため、警戒に越したことはないだろう。
「つゆりと云ったな」
「……は、はい」
「私はかすがだ。改めて礼を云うぞ」
 それから、とつゆりの肩あたりに目を向けて続ける。
「さっきも云ったようにその傘は目立つ。今は雨も降ってないんだ。閉じたほうが身のためだぞ」
「うん、それもそうだね。で、旦那はいつまでつゆりちゃんの手握ってるの?」
 それじゃ傘閉じられないでしょ、と笑う佐助に幸村は勢いよく手を離した。ほかほかと温かかったつゆりの手は急に外気に晒される。
「もっ、もも申し訳ございませぬ!」
「い、いえっ、大丈夫、です」
 幸村が顔を赤くしてあまりに焦るものだから、つゆりまで恥ずかしくなる。気を紛らわすように急いで傘を閉じた。
「じゃあ日が暮れる前に行きますかね」
「案内は必要ないな」
「う、うむ。幾度か足を運んでおるゆえ」
 そうか、と答えるとかすがは姿を消す。
「もうつゆりちゃんから目離さないでよ、旦那」
「判っておる」
「つゆりちゃんも、旦那から離れないこと」
「……す、すみませんでした」
「判れば良し! じゃあ俺様も先に行ってるから」
 かすがに続いて佐助も姿を隠した。先ほどのこともあってか、急に静かになった空間が少し重い。
「立てまするか」
「あ、はい」
 差し出された手を掴む。再び触れたその温もりにつゆりはやはりほっとするような安心感を覚えた。
「お疲れとは思いまするが春日山城までもうしばらくの辛抱にございまする」
「大丈夫、です」
「では、参りましょうぞ」
 再び馬に乗り、幸村の合図で走り出す。向かってくる風の気持ち良さと、背中に感じる温かさに身を委ねてつゆりは目を閉じた。




安らぐぬくもり

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