それもいいかもしれないね。幸村の背後に降り立った佐助はなに食わぬ顔でそう云った。幸村に全力で否定された分、つゆりはあっさりとした返答に驚いていた。同時に、ほんの少しだけ、胸が痛んだ。自分で決めたことなのに、望んだ答えだったはずなのに。今さら、傷付くなんて。
「奥州の独眼竜から文だよ、旦那」
 丁寧に折り畳まれた紙がその懐から取り出された。どくがんりゅう? とつゆりが首を傾げるよりも先に幸村が声を上げる。
「政宗殿から? なに用にござろうか」
 受け取り、広げた文字を大きな焦げ茶色の瞳が辿る。政宗、と幸村が呼んだその名にはつゆりにも聞き覚えが在りすぎた。独眼竜、伊達政宗だ。
「なんと……」
 幸村の表情が険しくなった。彼のそんな顔を見るとどこか落ち着かなくなる。おそらくはつゆりが入れる話ではない。戦だとか軍だとか、嫌な文字がつゆりの脳裏に浮かんだ。
「私、少し、外しますね」
「あっ、待って待って。俺様の勘が正しければつゆりちゃんにも関係あることだと思うんだけど。ね、旦那」
 同意を求める目が幸村に向けられた。いったい、なんだというのだろうか。
「……うむ。雨は未だ甲斐周辺にのみしか降っておらず、相変わらず奥州を含め日ノ本のほとんどが干魃に見舞われているとのこと」
「うんうん、それで?」
「甲斐に降りたと噂に聞く雨神を、人助けと思ってこちらへよこせ、と……」
 やっぱりね、なんて佐助は目を細めた。手紙の内容が判っていたからこそ、つゆりに甲斐を出るのもいいかもしれないと促したのだ。
 つゆりもそれに納得したのか、胸のわだかまりがすとんと落ちていった。やはり佐助は自分のことをよく思っていないのではないか、なんて少しでも考えた自分の悲観さに嫌気が差す。
 きっと自分のために、そう云ってくれたのだ。
 つゆりなりに悩んだ。熄まない雨、増幅する川、浮かぶ洪水の二文字。それらを目の当たりにしてしまったら、見て見ぬふりなどできるはずもなくて。
 信玄や幸村、佐助、他にも多くの人にお世話になった。その人たちを困らせたくはない。この土地を壊したくはない。
「い、行かせて下さい」
 口をついて出たことばに、手紙を覗き込んでいたふたりの顔が上がる。
「し、しかし……」
「私、大丈夫、です。ひとりでも、大丈夫ですから」
「なっ、ひ、ひとりでなどと毛頭行かせる気はございませぬ! なれば、某がお供致しまするゆえ!」
「うん、それでいいんじゃない?」
 ほとんど勢い任せの幸村のことばに、佐助がうんうんと相槌を打った。けれど、幸村だって忙しいはずではないか。慌てるつゆりをしり目に、しかしふたりの会話は進んでいく。
「そう、だな。となると、お館様にもお話しせねば」
「頼んだぜ、旦那。川が氾濫してからじゃ遅いんだ」
「わかっておる」
 さっそく信玄に話をつけてこようと幸村は駆けていってしまった。呆気にとられていたつゆりはその背中を黙って見送ることしかできない。
「旦那も心配性だね」
 呆れたような、けれど温かさを含んだ呟き。見上げれば佐助はふだんつゆりには向けないような優しい笑顔をしていた。
「つゆりちゃんのことが心配でたまらないんだろうね」
「……え」
「もちろん甲斐も大事だけど、つゆりちゃんを見知らぬ土地へ出したくはないんだよ」
「……そう、ですかね」
「ずっとここに居て欲しい、って思ってるのかもしれない」
 旦那も、俺様も。
 佐助はなんでもないことのようにさらりと云った。そう、思ってくれていたら、どんなに素敵なことだろうか。嬉しい、と思う。
 けれど、自惚れては駄目だ。ことばに絆されては、駄目なのだ。
「それにしても、竜の旦那も強引なこって」
「それくらい、大変なんだと、思います。きっと」
「まあね、わからなくもないけど。しかしいくらなんでも『よこせ』って……」
「でも、ちょうどよかったです」
「なにが?」
「甲斐から出たとして、一体、どこに行けばいいのか、わからなかったので」
「ああー……」
「ご飯とか、用意してくれるん……ですよね」
 それがつゆりの一番の不安だった。この世界の土地勘などない自分が、ここを出て果たして生きていけるのだろうかと。のたれ死んでも構わないような命だけれど、例の件からつゆりは死ぬなら即死がいいと思っていた。寒さと飢えと中途半端な怪我は死ぬより地獄だ。
 ……それでいて、もっと辛いのは、ここまで良くしてくれた彼らの気持ちを、踏みにじること。
「あのさ、つゆりちゃん」
「……はい」
「どうしてなんでもひとりで解決しようとするわけ」
「……え?」
「もし仮に竜の旦那から文が来なかったとして、つゆりちゃんが別の知らない土地に行くとする。そしたら大将も旦那ももちろん俺様だって全力で助っ人するよ。住処や食料その他もろもろ!」
 早口で捲し立てられて反論する隙を与えてくれない。どうして、佐助が怒るのか、つゆりには理解できなかった。
「アンタのそういうとこ、ほんと見てて苛々する」
「……」
「全部ひとりで抱えようとして誰にも頼らない。そんなんじゃ誰だって生きていけるわけないだろ」
 核心を突かれた気分だった。頼れないんじゃない。不器用さを云い訳にして、頼らなかった。
 だから、死にたくなった。
「頼ったって、構わないんだ」
「さ、すけ、さん……」
「迷惑だとか考えなくていい。云っただろ、心配なんだ。そうやって、ひとりで抱え込まれるほうが怖い」
 佐助の表情は見えない。なにを思ってそんなことを云ってくれるのか、佐助の頭の中も。つゆり自身の気持ちさえ。
「わ、わからない、です」
「なにが」
「どうして、赤の他人に、そこまで云えるのか、私には」
「っはあ!?」
 大きな声にことばを遮られ、思わず肩が跳ねた。鋭い切れ長の瞳がキッとつゆりを睨む。
「アンタまだ俺様たちとは赤の他人だとか思ってたわけ!」
「……え、あ」
「馬鹿じゃないの! いっしょに暮らして、いっしょに食べて、こうしていっしょに話をするのはもう赤の他人じゃないでしょーが!」
「あ、の……」
「つゆりちゃんはもう、立派な武田軍の一員だよ」
 まったく、と佐助はそれきりそっぽを向いてしまう。思い上がったら、駄目だ。そうつゆりは自分に云い聴かせる。なのに、どうしようもなく嬉しくて。なんて云ったらいいのか、ことばが見つからなかった。
 つゆりが沈黙していると、溜め息がひとつ降ってきた。
「わかったら、もうひとりでなんとかしようだなんて思わないこと」
 佐助の大きな手がつゆりの額を小突く。こつんと当たった篭手は冷たいが、隠れた手は温かいのだろうなと思った。すると佐助は、あ、となにかを思い出したように小さく呟く。
「勘違いしてるようだから云っておくけど、しばらくしたら甲斐に帰ってくるんだからね」
「……え」
「だから、ちょっとした旅行だと思って楽しんできなよ」
 呆れたような笑顔。ありがとうございます、と小さく呟けば、いーえと陽気に返してくれた。

 少し経って聴こえてきたドドド、という足音と廊下の板が軋む音。近付いてきたかと思えば、キッと高く急ブレーキを掛けて紅が止まった。
「佐助! つゆり殿!」
「……旦那、もうちょっと静かにしてよ」
「おお、すまぬ! お館様がお許し下さったのだ!」
 奥州へ行く許しが出た。そうしたら初めて、つゆりはこの甲斐から出るのだ。この世界の伊達政宗公はどんな人だろうか。
「甲斐はもちろん奥州のためにも一刻も早く出たほうが良いとの判断ゆえ、明日の明け方には出発致す。つゆり殿もご自分の支度を今晩のうちに済ませて下され」
「わ、わかりました」
 つゆりがうなずくと幸村もうなずき返した。それを見て佐助がひらりと手を振る。
「よかったじゃない。気を付けて行ってらっしゃい」
「なにを云うておる、お主も行くのだぞ、佐助」
「え、嘘だろ……?」
「嘘ではない。お館様がそう申したのだ」
「ちょっと待ってよ、任務は!」
「休暇だそうだ。よかったな」
 休暇になってないからそれ、と疲れ気味に零れた声は幸村には届いていない。つゆりはじわりと胸があたたかくなるのを感じた。大変だろうな、とは思うけれどこの三人でいっしょに行けることが嬉しいのだ。
「……楽しみですね、佐助さん」
「つゆりちゃん……」
「幸村さんも、よろしくお願いします」
「お任せ下され!」
 二人とも、頼もしくて、優しい。もう他人でないならば、信じられるこの関係は何と表現するのだろうか。家族とも友達とも違うそれは、妙に心地好いものだった。




信頼できるひと

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