くるり。幸村の視界の端で紅が踊った。振るっていた槍を止めてそちらを見遣ると、同じくこちらを見ていたらしいつゆりと目が合う。
 自分は神などではないのだと打ち明けたつゆりは、それ以来どこかすっきりとした顔をしていた。
 ずっとどうしたらよいものかと悩んでいたのだろう。幸村は反省していた。雨神ではないか、などという自分の早とちりな思い込みは、少なからずつゆりの気苦労の種となっていたに違いない。神と間違われるなど、さぞ重荷となっていたはずだ。
 そう思うとやはり申し訳なさが心中に渦巻いた。それでもつゆりの影を少しでも取り除くことができてよかった、と感じる。
「つゆり殿、いかがしたのでございまするか」
「あ、ただの、散歩です」
 幸村さんは鍛錬ですか、とつゆりが幸村の手が持つ二槍に視線を落とす。どことなくその表情が曇って見えるのは気のせいだろうか。幸村が、はい、と返事を返すとつゆりは瞬きをひとつして口を開いた。
「すごい、ですね。幸村さんは」
「……なにがでございましょう?」
「毎日毎日、時間があれば槍を振っていて、嫌にはなりませんか」
 きっと彼女には嫌になった経験があるのだろう、そう思わせるようなつゆりの声色に幸村は口をつぐむ。
「……例えば、失敗してしまった時とか、目に見えて成果が出ない時とか」
「つゆり殿……」
「それでも、いつもと変わらず、槍を持てますか」
 いつも変わらずなど、いられるわけがない。しかし、たとえどんなにこころが荒れようとも、この鍛錬は一日たりとて怠るわけにはいかぬ。
「初めから、失敗などせぬと判っていたら、鍛錬など要らぬとは思いませぬか」
 俯いていたつゆりの顔がゆるりと上がった。答えを探して夜の色をした瞳が揺らぐ。
「成果を求めて鍛錬をすることは間違いではございませぬ。某も強くなりたいという一心で槍を振るっておりますれば」
「……幸村さんも」
「しかし、一番は己が少しでも後悔することのないようにしたいがため」
「後悔?」
「成果が出ぬと諦めてしまえば、いざという時に後悔するに違いありませぬ。もっと修練を積んでおればと」
 命を失ってからでは遅い。戦場でやり直しは利かないのだ。
「……そう、ですよね。ありがとうございました」
 いえ、とひと言返す。僅かでもつゆりを思考の闇から救い出せることができたのなら、幸村にとってそれ以上のことはない。
 つゆりは一度なにかを考えると溺れるまで溜め込んでしまいそうで、だからこそ自分の思うことをこうして話してくれるのは喜ばしく感じる。
「それでは、邪魔をしてしまって、ごめんなさい。鍛錬、頑張って下さい」
「お、お待ち下され」
 軽く頭を下げてから背を向けたつゆりを、幸村はほとんど無意識に引き留めた。驚き振り返ったつゆりに、しかしなにを話すかも決めていなかった幸村は慌てて、すみませぬ、と謝り返す。
「そ、その……雨は、止みませぬな」
 どうにか絞り出したのはつゆりが雨神ではないと知った時からずっと疑問に思っていたこと。ならば雨は、偶然なのかと。
「……ご、ごめん、なさい」
 つゆりは俯いてまた小さく謝った。
「なにゆえ、つゆり殿がお謝りになるのでございまするか。そなたは雨神ではないのでは」
「……ひとつ、お話を聴いてもらえますか?」
「もちろんにござりますれば、なんでも仰って下され」
 促すように答えれば薄紅色の唇が戸惑いがちに開かれた。
「私は、神様なんて、そんな神聖な者ではなくて……雨女、なんです」
「あめおんな……?」
 つゆりの口から聴き慣れぬことばが出てくることに、もう驚くことはない。それでもその単語には首を傾げることしかできなかった。意味はどことなく汲み取れるのだが。
「雨女、ってその人がなにか特別なことをすると、必ず雨が降るって云われていて」
「つゆり殿がなにかをすると、必ず雨が降るということでございますな?」
 反復するような問いにこくりとつゆりはうなずく。
「だ、だから、私には雨を止ますことも、私の意志で降らせることも、できないんです」
 ごめんなさい、か細い声で再び謝られ、幸村は慌ててかぶりを振った。
「つゆり殿が謝ることなどなにひとつありませぬ……! なれば枯れかけた地に慈雨をもたらして下さったのは、他でもないつゆり殿ではござりませぬか」
「妖怪、なんだそうです」
「よ、ようかい?」
「あやかしです。……雨を降らす、迷惑な妖怪の血が、流れてるんです」
 そう云うとつゆりは自分の手首を裏返し、淡く浮き出た血管を忌々しげに見遣った。
「そ、そのような……。まるで自分が人間ではないような云い方、なさらないで下され」
「なんて、それは迷信に過ぎないんですが」
「め、迷信?」
 びっくりしましたか? と、つゆりは静かに紅い傘をくるりと回す。
「けれど、あながち嘘でもありません」
「紙一重ではないでしょうか」
「……え?」
「人は都合のよい生き物にございますゆえ、降って欲しい時に雨が降れば神と崇め、逆に降って欲しくない時は妖怪だと除け者にするのでござりましょう」
「たしかに、そうかもしれませんね……」
「なれば少なくとも、今の某を含め甲斐の民にとって、つゆり殿は神も同然のごとき恩人。なにも気兼ねすることなどはありませぬ」
 幸村の声に、つゆりの傘の柄を持つ小さな手にきゅ、と力がこもる。
「でも、草木たちもそろそろ、陽が欲しい頃じゃないでしょうか……」
「う、うむ……」
 否定はできない。野菜などは根腐れの恐れもあるし、なにより川の水位が上がってきているのだ。
「たぶん、この世界へ来てしまったことが、一番の原因なんです」
「雨が降る理由、にございまするか」
「はい……。だから、私がここに居る限り、雨は降り続けるような気がします」
 ほぼ同時に空を仰いだ。最後に晴天を見たのはつゆりがこの地に降りる前。それからは晴れながらの雨はあっても、雨が完全に熄んだことは一度もない。
「甲斐から、離れようと思ってます」
 まるで自分に云い聞かせるようにつゆりは口調を強めた。
「なっ、なにを仰いまするか……!」
「私が、そうしたいんです」
「しかし……っ」
「妖怪には、なりたくない、です。できれば、神様のままで」
 村を守っている堤防が決壊するようなことになる前に。
 つゆりのことばに、幸村は彼女が連日の雨で川の水位が上がっていることを知っていたのだと気付く。こうして度々、ひとりで散歩に出ては川の行く先を見守っていたのか。
「あの堤防は、滅多なことで落ちたりは致しませぬ!」
「それでも、このまま水位が上がり続ければ、いつかは」
「……っ、その時は、この幸村が!」
「後悔、したくないんです。私は、ここが好きですから」
 お願いです。私を甲斐から出して下さい。
 懇願とも云える申し出に、しかし幸村は肯定などできるはずもなかった。
「それもいいかもしれないね」
 背後から聴こえた声にはっとする。振り返ればいつから居たのか、佐助が普段と変わらぬ様子で立っていた。
「な、にを、云うか、佐助」
 自分が焦っているのが判る。まあまあ、落ち着いて。佐助はそう宥めるように苦笑を零すと、懐から何かを取り出した。
「奥州の独眼竜から文だよ、旦那」




あやかしと神様

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