弓の指南や一日二度の食事の時以外、ほとんど部屋に引き込もっていたつゆりに、信玄が城の中ならば自由に歩き回っていいと云ってくれた。
「お主はもうこの館の者の一員なのだ」
 お茶を一気に仰いで信玄はおおらかな笑顔を向ける。つゆりはくすぐったいような、むず痒いような感覚にどうしたらいいのかわからず、とりあえず同じようにひと口お茶をすすった。
「なに、物足りなければ城の外へ出ても構わん」
「ほ、本当ですか……?」
「ただし、供の者を必ず付けるのじゃぞ」
 それから外出の折りはワシに報せねばならぬ、といささか過保護にも思える条件を出される。わかりましたとうなずけば、まるで子どもにするように良い子じゃと頭を撫でられた。
「供にはお主の好きな者を連れていくとよい」
「好きな者……」
「佐助が安心だが幸村もよかろう。他の忍や兵たちも皆優秀じゃ」
「あ、ありがとうございます」
 立ち上がった信玄に、自然と頭が見上げる形に持ち上がる。すると、やさしそうな瞳がくしゃりと細められた。
「いつでもそうして顔を上げておれ」
 それは暗につゆりがよく俯いていることを示唆していた。また下を向きそうなるのをぐっと堪えて、つゆりは、はい、と短く返事をしたのだった。

 自由に出歩いてかまわないと許可が下りたとは云え、つゆりはなかなか城の外へは出られずにいた。さまざまな景色を眺めながら散歩するのは、この世界に来る前から好きだったのだが、そのためにわざわざ他の人を供なんかに連れ出すのは気が引ける。
 佐助は忙しいのか、はたまた忍の本分なのかほとんど姿を見せないし、幸村だってなにかと鍛錬や執務に勤しんでいる。あまり面識のない人に声を掛けることは余計に憚られた。
 それでも、この甲斐を自由に散策してみたいという気持ちは収まらない。つゆりは幸村と佐助と出向いた城下の風景が忘れられないでいた。
 活気溢れる城下町も良いけれど、田畑の広がる村も見てみたい。この世界の農民たちは一体どんな生活を送っているのだろう。
「雨神殿?」
 ひとりでも大丈夫だろうか、なんて考えが頭に浮かび始めた矢先、突如に声をかけられた。あまり聴き慣れていない音は不必要なまでにつゆりの心臓を跳ね上がらせる。
「このような所でどうなされたのですか」
 不可解そうに問われ、はっと顔を上げれば佇んでいたのはやはり見慣れぬ男の人だった。城の中で幾度か挨拶を交わしたことがあったかもしれないと、思い返すも遂に名前は出てきてくれなかった。
「す、すみません……」
「城の外へ出ようとしておいでで?」
「あ、い、いえ……えっと」
 素直にそうだとも云えず、挙動不審な返答しかできない。反対に男は落ち着いた調子でことばを向けた。
「お館様には供をなしに雨神殿を城の外へ出させては行けないと仰せつかっておりますので、宜しければこの小山田信茂がご案内致しましょう」
 冷静な申し出にしばし呆気に取られてしまい、すぐには返事を返せなかった。数度、台詞を頭の中で反響する。そこで初めて目の前の彼の名前を知った。
「小山田、さん」
「はい」
「い、いいん、ですか?」
「雨神殿さえよければ」
 わずかに微笑まれ、つゆりは最大限に感謝を詰め込みお辞儀した。お願いします、と呟いた声は緊張で少し震えてしまった。
 ひとりのほうが気は楽だけれど、知らない土地の勝手は判らないし、なにより信玄の云い付けは守りたかった。それに、またひとり顔見知りが増える。
 以前までは人と話すことさえ億劫だったのに、それがとてつもなく素敵なことなのだと気が付いたのだ。
 人の輪が広がると、世界も広がると。

 城下ではなく村をよく見てみたい、つゆりがそう頼むと小山田信茂は少し驚いたものの快く案内してくれた。
 足を踏み出す度にぬかるんだ泥が跳ねる。農作業は雨の中でも関係ないらしく、ところかしこにせっせと畑をいじっている人たちが見受けられた。
「干魃が酷く田畑が枯れるのではと危惧していた農民たちも、雨神殿のお陰でこうして耕作に精を出しております」
 目線は前のまま信茂が単調な声音で話す。自給自足の村人たちにとって、田畑はすべてだ。それが枯渇してしまうということの意味なんて考えなくてもわかる。
 今まで疎まれるものでしかなかった自分のこの体質が、誰かの役に立つことができた。それを今、こうして初めて間近で見て、つゆりは少しだけ救われたような気持ちになった。
「お姉ちゃんが雨神様なの?」
 幼い声が問いかけた。目線を落とせば背丈の小さな少女がつゆりを見上げている。信茂はなにも言及せずにつゆりが答えるのを待っているようだった。
 つい先日、つゆりは神様ではないのだと幸村と佐助には明かしたばかりだけれど、ここは嘘を通すほうが村人のためには良いのだろう。この時代、神や仏への信仰は厚い。
「……そう仰る方も、いらっしゃるかもしれません」
 ただ曖昧にそう答える。女の子はぱっと目を輝かせると、すごい! なんて声を上げた。
「雨をふらしてくれてほんとにありがとう!」
「……いいえ」
 可愛らしい笑顔にこころが温かくなる。けれどその表情はすぐに困ったものに変わった。
「でも、もう雨はいいよ」
 女の子は田畑の広がるもっと奥のほうを遠く指差した。
「いっぱい雨がふりすぎると、川があふれちゃうんだって」
 不安そうな彼女の表情につゆりの心臓は嫌な鼓動を打つ。隣で静かに話を聴いている信茂のほうにつゆりは浅く顔を向けた。
「……川が、氾濫すると、どうなるのでしょう」
「堤防が壊れれば、村ごと呑み込んでしまうかもしれません」
「堤防……?」
「お館様が村を守るために造られたのです。とても頑丈ですから、滅多なことでは壊れないと思いますが」
 そのことばに頭から血の気が引くのを感じる。冷える指先で傘の柄を無意識に握りしめた。
「……その川に、連れて行ってもらえますか」
「あぶないからだめだよ!」
 つゆりの申し出を遮ったのは信茂ではなく目の前の小さな少女だった。
「川の水はもうふえてきてるから近づいちゃだめって、母さまもいってた」
 必死に引き留めようとする彼女には申し訳ないと思うものの、川を堤防をこの目で見ておきたい。
「大丈夫ですよ。……私は、神様ですから」
 嘘をつく。この小さな少女が僅かでも安心するのならば、それでいいと思った。
「雨神殿」
「案内して下さい、小山田さん」
 泣き出してしまいそうな少女の柔らかい髪を撫でる。幼子に泣かれるのは苦手だ。
「きをつけてね」
 震えるソプラノにひとつうなずく。
「はい、ありがとうございます」
 行きましょうか、と歩き出す信茂に続いてつゆりはその場を離れた。

 田へ水を引いたり飲み水にも用いられるその川は、平生のその姿を知らなくても確かに水量が多く荒れているように見えた。
「あちらに見えるのがお館様がお造りになられた堤防です」
 広範囲に高くそびえる木造のそれ。とても丈夫そうだけれど、どうなるかなんてその時が来ないと判らない。自然の力は計り知れないのだ。
「穏やかとはいえ、このまま雨が降り続ければ氾濫するかもしれません。流れも平常より速いように感じます」
「そう、ですか……」
 雨を止ませるためには、つゆりが甲斐から出ていくのが一番手っ取り早く確実な方法だ。つゆりには雨雲を自在に操る力などない。
「このまま、私を甲斐から出してくれませんか」
 無理を承知で頼んでみる。信茂は一瞬だけ目を見開くと、やはりすぐにいいえとかぶりを振った。
「お館様の意向なしにそれはできかねます」
 そうですよね、と小さく零す。これはどうしたって直接、信玄に伝えるしかない。
「そろそろ陽も傾きますゆえ、戻りましょう」
「……はい」
 視界の端で水飛沫が弾けた。否応なしに不安を駆り立てるそれに足に根が生えたように動けなくなる。そんなつゆりに信茂は振り返り口を開いた。
「まだ、大丈夫ですよ」
 力強いことばにつゆりはうなずいて、前を行く彼のあとを追った。




降りそそぐ不安

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