暇を持て余す昼下がり。ふと甘いものが恋しくなって、つゆりは自分の鞄からチョコレートを一枚取り出した。
 畳を汚さないようにと縁側へ出る。空は相変わらずの雨模様だ。
 包装の銀紙を破いてチョコレートをパキ、と一列折るとカカオの香りが立ちのぼった。あんなにも嗅ぎ慣れていた匂いのはずなのに、無性に懐かしい気持ちになる。
 舌で溶ける甘さもなにも変わらなくて、もといた現代は今どうなっているのだろうかと否応なく思い出された。
「なに食べてるの?」
 前触れなく降ってきた声にびくりとつゆりの身体が跳ねた。なに食わぬ顔で覗き込んでくる佐助から逃れるように視線を彷徨わせる。
「つゆりちゃん?」
 悪さをしたことが見つかってしまった子どものように、つゆりは佐助の顔を見ることができずに黙り込んでいた。
 なんて答えたらいいのか、適当なことばが見つからないのだ。
 ふいに佐助の手が伸びて、つゆりの腕を捕らえた。そのまま佐助はつゆりが持っていたチョコレートを食べてしまう。つゆりは突然のことに、指先にかすかに唇が触れたことにさえ、なんの反応も返せない。
「……な、なに、するんですか」
「いや、なんか変なものでも拾って食べたんじゃないかと思って」
「……」
 佐助の目に自分は一体どんな風に映っているのだろう。つゆりが沈黙を守っていると、次に佐助は小さく吹き出した。
「冗談だよ。つゆりちゃんが食べてるものに興味があっただけ」
「そう、ですか……」
「でもなに、これ。甘いね」
 えっと、としどろもどろになるつゆりを佐助は待っていてくれる。チョコレートです、としか云いようがないのだけれど、通じるはずもないそれを声にするのは憚られた。
「なにをしておるのだ、佐助」
 投げ掛けられた他の声につゆりの心臓は落ち着く間もなく再度飛び跳ねた。そんなに驚かなくてもいいでしょうに、なんて佐助が笑う。
「俺様は城の巡回中。旦那こそ、執務はどうしたの?」
「きゅ、休憩だ」
「ふーん、休憩ねえ……」
 意味ありげに目だけを細める佐助へ、幸村はあからさまに話題を転換させる。
「なにやら、甘い匂いがするな」
「確かに旦那は好きそうだね」
 もらうよ、とひと言断ると佐助がつゆりの手からチョコレートをひと口分だけ割った。それを幸村に手渡す。恐る恐るかじった幸村の顔がすぐにぱっと明るくなった。
「なんと、甘うござる!」
「不思議だよね。で? なんなの、これ」
「あ、あの……」
 佐助に、幸村もいる。これは、ふたりにすべてを話す機会なのだろう。そうつゆりは腹を括った。ちゃんと話すと決めたのだから。
「少し、長くなります、けど、聴いてくれますか……?」
 その問いかけに不思議そうにしながらもうなずいた幸村と佐助は、つゆりに並んで縁側に腰を下ろした。

 数秒の間、一体なにから話したらいいのかと考えを巡らせたあと、初めに出てきたのはただひと言。
「ご、ごめんなさい……っ」
 突然の謝罪に目を剥くふたり。どうしたのだと幸村が慌てて宥めるのだが、つゆりは気まずさや恐怖から顔が上げられない。
 きっと、これから話すことに彼らは幻滅するに違いないのだ。見限られるかもしれない、出ていけと云われるかもしれない。しかし、つゆりには道化を演じる切る器量もない。
「わ、私は、神様なんかじゃないんです」
 皆さんが信じて疑わないものだから、云い出しづらくなってしまって。そう云い訳がましく付け足した。しばらくの沈黙ののち、最初に口を開いたのは幸村だった。
「なんと……! 左様にございましたか!」
 あまりにもあっさりとした感想に、つゆりは逆に驚いてしまう。佐助は佐助で、まあそうだよね、なんて納得していた。
「今思えばつゆり殿はひと言も自らを雨神だとは仰っておりませぬな」
「いや……、それをナシにしてもこんな女の子が神様っておかしいじゃない。俺様はつゆりちゃんからそれを聴けて安心したよ」
「む、そう云われてみれば……しかし、なればつゆり殿は何者なのでございましょう」
 まさか、ただの民ではないだろう、そんな思いを滲ませた口調だった。つゆりが恐る恐ると顔を上げれば、好奇心を少しだけ含ませた瞳と出逢う。
 自分が神様であることと、未来もしくは別世界の人間であること。どちらが信じ難いものなのか、つゆりには判断できかねた。
「上手く、説明できないんですが、たぶん、別の世界の、未来から来ました」
「別の世界の未来?」
「それは、いったい……?」
 案の定、疑問符が飛び交った。簡潔に、また正確に伝えることは困難だ。つゆり自身がよくわかっていないのだから。
「私がここに来る前は、戦のない日本で生活をしてました」
「戦のない?」
「けれど、400年くらい前には、戦国時代と呼ばれる時代があって、織田信長や徳川家康といった多くの武将の名前も残っています。……もちろん、お館様や幸村さんのお名前も」
 しかし、真田幸村が武田信玄に仕えていた記録はつゆりの世界にはないということ。猿飛佐助は架空の人物だとされているということ。槍に炎が灯ったり簡単に姿を消したりすることは不可能だということ。
 それらを正直に話して、自分のいた世界と今この世界を比較し、矛盾点を上げていく。
「きっと、すごく似ているけれど、まったく別の世界なんだと思います」
「そんなことが有り得るの?」
「信じられません、よね……」
 手に持ったままのチョコレートに目を落とす。当たり前だ。つゆり自身だって信じられないのに、いきなり信じろというほうが酷な話である。
 信頼を与えることのできない人間が、信頼を得られるはずなどないというのに。
 チョコレートを幸村に渡して立ち上がるなり、つゆりは部屋に佇んでいた自分の鞄をほとんど衝動的にひっくり返した。
「なにを、」
 小さな制止を掻き消して、バラバラと色とりどりのパッケージたちが零れ落ちる。さらりとした青い畳にとても不釣り合いなそれらはつゆりを妙な気持ちにさせた。
 ノートや筆箱、財布までもが転がり落ちて、電子辞書とゲーム機が鈍い音を上げて畳に叩きつけられる。最後にポケットから携帯電話。
 そうして自らばら蒔いた、今のつゆりが持っているすべてを上から眺めてみたとき、つゆりはこの世界で自分自身を証明するものが、たったのこれだけなのだということを知った。
「なにを、しておられる」
 幸村も佐助も呆然としてつゆりの足下に散らばるものたちを凝視する。それから、上がった瞳はどこかこころもとない色を帯びてつゆりを捉えた。
「ご乱心召されたか」
「……いえ、正気です。見てもらったほうが、早いと思って」
「だからって……」
「でも、私には、これだけなんです」
 ……全部、置いてきてしまったから。そう消え入りそうな声で答える。今ここでつゆりをつゆりだと認めてくれるものは、これらと、壁に立て掛けてある弓くらいだ。
「私、は……」
 馬鹿だねえ、そんな溜め息混じりの呆れた声がつゆりのことばを遮った。立ち尽くすつゆりの頭を佐助がやさしく撫でる。いつか拒んだそれを、もう一度。
「なにも信じないだなんて云ってないじゃない」
「そ、そうでございますぞ、つゆり殿! 某は信じておりますゆえ……!」
 幸村までもが駆け寄ってきてくれて、つゆりは今まで色々なことを勘違いしていたのだと気付かされる。
 彼らはもう、「雨神様」というくくりではなくて「つゆり」として、ひとりの人間としてつゆり自身を見てくれていたのだ。
「知らぬ土地に落とされて、さぞご不安であったはず。なにも気付けず申し訳ございませぬ」
「……私は、ここに居ても、いいんですか?」
「もちろんにござりまする」
 涙が出そう、というその感覚は麻痺してしまっているけれど、きっとこういう時に使うのだと感じた。こころなしか、雨の音が大きくなった気がした。
「もともと拾っちゃったのは俺様だしね」
「佐助!」
 冗談めかして云った佐助へ、幸村が眉間に皺を寄せる。それがとても微笑ましくて、羨ましくなるくらい素敵な主従関係だなと思う。
「幸村さん、そんなに握ったら、チョコレート、溶けちゃいます」
「ちょこれいと?」
「へえ、これちょこれいとって云うんだ」
 佐助が興味津々といったように見遣る。幸村もまた自分の手に視線を移した。ごくり、と男子特有の喉仏が上下する。
「よかったら、食べてください」
「よっよいのでございまするか!」
「あ、じゃあ俺様はつゆりちゃんが前に食べてた飴がいいな。美味しかったから」
「……え?」
 確信を持った、にやりとした意地の悪い笑み。その真意に気づいたつゆりの思考は数瞬さらわれてしまう。それでも辛うじて理解した事実に、つゆりはぐぐと眉を寄せた。
「た、食べたんですか……?」
「一応、調べておかなきゃと思って」
「き、汚い……」
「なんの話をしておるのだ?」
 わけがわからないと云ったように幸村が問うけれど、佐助はなにも云わずににやにやと笑うだけであるし、つゆりはもはやそれどころではない。力の抜けた手でたどたどしく空色のみぞれ玉を渡した。
「……なんでも、ないですよ」
「佐助、」
「ん? 旦那には関係ないことだから」
「隠すようなことなのか」
「……いえ、云う必要もないくらい、くだらないことです」
「あら、酷いんじゃない?」
「酷いのはどっちですか……!」
 佐助を睨みつけるつゆりに、ふわりと幸村が嬉しそうに笑った。その笑顔に奪われたように、つゆりの目は釘付けになる。
「随分と仲がようなりましたな」
 以前、幸村が、佐助とつゆりがなかなか打ち解けられないのを気に掛けてくれたことを思い出す。
「大丈夫ではありませぬか、つゆり殿。とても上手にやれておられる」
 今度は佐助がなんのこと? とつゆりたちに尋ねる番だった。些細なことだ、と幸村が小さく笑む。
「おふたりの、お陰です」
 つゆりひとりでは、現代と何も変わらずにいたに違いないのだ。
 少しずつ緩やかに変化していく自分自身を、つゆりは不思議な感覚で眺めていた。




溶けるこころと

- 17 -


×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -