指が落ちる。
 手首が、腕が、ぽろりぽろりと順々に落ちていく。手が届かなくなる。
 すべて取れたら次は足。
 少しずつ少しずつ、身動きがとれなくなる。

 そんな夢を最近、つゆりは毎晩のように見ていた。
 それは孤独で恐ろしい、現世で誰かといっしょに居る時に感じていた劣等感のようなものに似ている。みんなに歩幅を会わせようと必死にもがいて、それでも付いていけずに置いていかれてしまうのだ。
 しかし、ここでは不思議なくらいそんな風に感じることがない。
 変に崇められているからと云ってしまえばそれまでかもしれないけれど、他にもなにかあるような気がするのだ。そう信じていたかった。
 だからこそ、今のつゆりは幸村や佐助に疎まれないようにと焦っているのかもしれなかった。こんな夢を見るのもきっとそのせいだ。

「もう少し、肘を上げて下さい」
 弓兵の矢をつがえる腕を水平に直してあげると、はいとしっかりした返事が返ってきた。
 最初こそ戸惑った弓道の指南役も、3日も務めればだんだんと板に付いてきた。弓道場はまるで真っ赤な炎が静かに水面下で燃えているような心地好い緊張を感じられる。
 聴こえるのは屋根を打つ雨音と、矢が的を射る鋭い、音。
「雨神殿が指南役を受けて下さって本当に助かっています」
 弓隊の隊長がつゆりに向かって緩やかに微笑んだ。つゆりは小さく、いえ、と返す。
「……皆さん、とてもお上手で、私では力不足のように思います」
「いやいや、そんなことは決してありませんよ。それに、居て下さるだけで皆の集中も上がるようです」
「そう、ですか?」
「はい」
 腰低く、そうなのですよと隊長はくり返す。
「私も少し、練習してきます」
 そう告げてつゆりは自分の弓を手に取った。敬われるというのはどこかむず痒くて落ち着かない。少し大きな袴を引きずるようにして規定位置につく。的の一点に集中して矢を番える。
 弓を押し出すように弦を引いて、鋭いそれを放った。的を打つ音が弓道場にひとつ反響する。
「お見事にございまする……!」
「……幸村さん?」
 もはや聴き間違えることもなくなったその声につゆりは驚きつつも振り返った。いつから居たのか、幸村が感激とでも云うようにこちらに視線を投げかけている。
「とても強くまっ直ぐな矢を放たれるのでございますな」
「弓とは元来、そういうものではないですか?」
「矢の軌道ももちろんにございますが、つゆり殿の弓を引く手には迷いがござりませぬ。そういった意味で『まっ直ぐ』なのでございまする」
 案外、幸村は思慮深い。つゆりは少し唖然とした。彼は彼なりに物事の内側までをしっかりと見据えているのだ。
「それでも、幸村さんの槍には敵いません」
「なんと。某の槍は戦う槍にございますれば、つゆり殿の弓とはまったくの別物。比べるものではありませぬ」
「……確かに、私の弓は戦うために教えられたものではありませんけど、今は戦うために、こうして弓隊の皆さまと訓練させて頂いているつもりです」
 つゆりのことばに幸村が僅かに目を見開く。それからすぐに、声を少しだけ落として云った。
「つゆり殿の弓は云うなれば『魅せる』弓にございまする」
「魅せる?」
「いかにも。つゆり殿の弓を放つ型は、まこと美しゅうございます」
 それは褒めすぎだ、とつゆりはかぶりを振った。美しいだなんて云われたのは初めてで、なんて返せばよいのか一瞬のうちには判断できなかったのだ。また、反対にいつになく饒舌な幸村はことばを続ける。
「それゆえ、つゆり殿に戦わせるつもりなど毛頭ございませぬ」
「……え?」
「ともに戦うなどと、かようなことはお考えにならないでくだされ」
 幸村が云う。眉間に皺を少しだけ寄せてつゆりの目だけを見つめて。心配して云ってくれているのだとつゆりはすぐに理解した。どうしてこんなにも幸村は真剣に自分のことを考えてくれるのか、それが不思議でならなかった。
「……そんな、戦場に出るだなんて考えてませんよ」
「そ、そうなのでございまするか? では、なにゆえ先ほどは」
「……はい。気持ちの面で、私も皆さんと戦いたいと思ったんです。……少しでも力になれるように」
「気持ち、にございまするか」
「……おこがましいでしょうか」
「いえ、心強く思いまする」
 柔らかくなった幸村の表情につゆりは自然と安堵する。建前でもそう云ってくれてよかったと。
「ところで、そろそろ休憩にしたらいかがにございましょう」
「そうですね」
 幸村の提案につゆりもうなずく。弓隊の隊長に休憩にすることを伝え、他のみなにもそうしてもらうようお願いした。
 弓道場を出て行く時に、ありがとうございましたとお礼を云われる。そのことだけには未だに慣れず、つゆりは毎回とてもくすぐったい思いをするのだ。

 どこか行きたいところはありまするか、と幸村がつゆりに問うた。回廊をゆるりと歩きながら優しい表情を零して。
「……高いところに、行きたいです」
 しばらく考えてからつゆりの口を付いて出たのは、そんな漠然とした答えだった。しかし云ってすぐ、しまった、とつゆりは思った。
「高いところ、と……」
「あ、いえ、そういうんじゃ……気にしないでください」
「いや、お連れ致しましょう」
 やさしく笑う幸村に、まるでお陽さまみたいなひとだとつゆりは感じた。暖かなひかりでもって、この身をやさしく包み込んでくれるような。
「よい処がありますれば」
 時間もちょうどようございましょう、と幸村は空を見上げた。

 ざく、ざくり。濡れた土と葉を踏みしめながら、ふたりは山を登っていった。
 雨が降っているというのに、幸村は傘を差してこなかった。小雨であるし大丈夫だと判断したのだ。しかし、そう云い張る彼につゆりは無理やり傘を突き付けたのだった。
 まっ赤な傘の中で幸村の表情はよく映える。時折、つゆりを気遣ってか、足は痛くないか疲れてはいないかと訊ねては休憩をとった。つゆりは訊かれるたびにいいえと答えるのだけれど、幸村のやさしさがそうしないのだ。
 最初はつゆりが持っていた傘もいつのまにか幸村に奪われている。ほとんどつゆりに傾けられているそれに、幸村が濡れては意味がないのにと思いながらもつゆりがそれを取り返すことは叶わなかった。
「そういえば、佐助さんは居ないんですね」
「佐助にございまするか? 今は任務中で諸国に赴いておりますゆえ」
「任務、ですか」
「はい。詳しくはお教えできませぬが」
「そうですか。いつも幸村さんといっしょに居るのに、珍しいなと、思って」
「あやつは忍にございますゆえ、もとより普段は姿を隠していることのほうが多いのでございます。……なれど、確かにここ最近は行動をともにしておりますな」
 それもつゆり殿を気に掛けているからなのやもしれませぬ、と幸村は笑った。
 そうだった、佐助は忍だった。つゆりは改めてそう感じる。幸村だって武士なのだ。

「着きましたぞ」
 幸村の声が励ますように降ってきた。
 最後、手を取ってもらいながら大きな段差に足を掛ける。引っ張り上げられ見えた景色は、厚い雲の向こうから微かにオレンジ色の光を届ける柔らかな夕空。
 そしてその下で活気立つ、雨に濡れた城下町。
「う、わあ……」
 ことばを失うくらい美しい風景が眼下に広がっていた。現代にはない和やかでやさしい雰囲気に、つゆりは魅せられたようにこの目を離せない。
「ここはお館様の治める城下が一望できる場所なのでございまする」
「……素敵ですね」
「あの辺りが先日訪ねた甘味屋にございましょう」
 幸村が指差した先には、たしかにあの日三人で並んで座った長椅子が出ていた。町を眺める幸村の表情がまたやさしくて、この甲斐を本当に大事に思っていることがつゆりにもわかる。
「また、行きたいです」
「うむ、必ず行きましょうぞ」
 しかし、と幸村は思い出したように城下町からつゆりへ視線を戻す。幸村の顔を見つめていたつゆりは慌てて前に向き直った。
「なぜ、高いところになどと」
「……この世界に来るまでは、よく高いところに登っていたんです」
「帰りたいと、思いまするか」
「どちらかと云えば……まだ、帰りたくないです」
 その答えは幸村にとって以外なものだったらしい。最初に甲斐で保護された際、すぐに帰ろうとしたため、幸村はつゆりがいますぐにでも帰りたいのだと思ったのかもしれない。幸村は目を丸くして、なにゆえ、ともう一度同じように返す。
「あまり、良いことがなかったので」
「……左様で」
「幸村さんと佐助さんに、お話したいことが、たくさんあります」
「話したいこと?」
「……謝らなければいけないことも、あります」
 つゆりはしっかりと幸村を見据えた。逃げているだけでは、駄目なのに。それを知っていながら知らないふりをしていたのだ。けれどもう、ごまかし騙すことにこの胸が痛んで仕方ない。
「佐助さんの任務が終わって、またおふたりが揃ったら、聴いてくれますか」
「もちろんにございまする」
 快い返事に、よかったですとつゆりは小さく呟く。こころの底からのことばだった。
「……それから、此処に連れてきて下さってありがとうございました」
「いえ。もう、戻りまするか」
「あともう少しだけ、見ていてもいいですか」
「構いませぬ、いくらでも」
 相合い傘のせいで自然と近くなる肩はつゆりとの高さが一段も二段も違っていて、幸村はこんなに背が高かったのだ、なんてことにつゆりは今になって気付く。
 幸村はどこまで自分を赦してくれるのだろう。そう隣から伝わる微かな温もりを感じながら、つゆりは近々話さなければならないことを頭の中で何度もくり返した。

 ここへ来てしまった経緯も、つゆりは神様でも何でもないことも、すべて。




ひとつ傘の下で

- 16 -


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -