つゆりは日に日にその表情を柔らかくしていっているように思えた。少なくとも、幸村の目にはそう映っていた。
 それはとても、とても僅かな変化で、気を抜けば見逃してしまいそうなほどではあるが。
 また、ことばを紡ぐ量もだんだんと増えていて、最初の頃のように声を詰まらせることも少なくなっている。
 現に、空は晴れているのにさらさらと柔らかに降りそそぐ雨がそう物語っているのだ。
 思い違いかもしれぬが、そうであると信じたい。

 もうすぐ太陽が昇るという頃、いつもより少し早くに目が醒めてしまった幸村は外の空気を吸いにいくことにした。
 愛槍である朱羅を両手に縁側へ出ると、片手を壁に付きながらおぼつかない足取りで廊下を歩く人影が見えた。
 薄暗い中で目を凝らしてみれば、それは紛れもなく。
「つゆり殿?」
「ゆき、むら……さん」
「い、いかがされたのでござりまするか!」
 慌てて幸村が駆け寄るも、つゆりは空いているほうの手のひらを向けて幸村を制した。これ以上近づくな、とでも云うように。
「トイレ……あぁ、違う。厠、に、行きたいだけですから」
「し、しかし、随分と顔色が良くないようだが」
 よく見ると暗がりでもわかるほどまっ青な顔をしているつゆりは、それでも力なく首を横に振って、心配ないです、と小さく呟く。
「……ちょっと、嫌な、夢を見まして」
「夢?」
「はい。だだの、夢、です」
「まことにございまするか?」
「本当ですよ。……幸村さんは、これから鍛錬ですか」
「う、うむ……」
「頑張って下さい、ね。失礼します」
 軽く頭を下げてから、つゆりはまるで身体を引きずるかようにして幸村の横を通り過ぎていく。吐き気を催すほどの夢とは一体どんなものなのか。本当に大丈夫なのだろうか。
「つゆり殿!」
 距離が遠くなってしまわぬうちにと、幸村が呼び止めれば、辛そうな顔がこちらを振り向く。
「き、気分が良くなられたら、今日は城下に行きませぬか!」
「……城下町?」
「いかにも。つゆり殿はまだ、城の周りから出たことがないと存じ上げておりまする」
「そう、ですね。……行って、みたいです」
「それでは、のちほどご気分を伺いに行きまする。お大事にして下され」
「ありがとう、ございます」
 ふらふらと厠へ向かうつゆりを幸村は内心、手を貸してやりたい気持ちで見送る。しかし制止された以上、自分にできることなど皆無なのだろう。
 心配だが、病でなく気分が悪い時は、その者なりの対処法があるのだ、きっと。

 鍛錬を終えた幸村が部屋へ戻ろうと踵を返すと、柱を背に隠れるようにしてつゆりが座り込んでいた。迎えに行くとたしかに云ったはずなのだが、どうやらつゆりのほうから出向いてくれたらしい。
 もう体調は良いのだろうか、と心配になると同時に頬がゆるりと綻んでいくのが自分でもわかった。
 つゆりはあまり強く自己を主張するほうではないので、佐助に日頃鈍いだのと云われてしまうような幸村には、つゆりがなにを考えているかなど推測も困難なのだ。
 しかしこれは、城下へ降りることを楽しみにしていてくれている現れと見てよいものだろうか。
 幸村は柱の後ろから覗き込み、つゆりを伺う。つゆりは待ちくたびれたのか、その顔を伏せてしまっていた。
「ね、眠っておられるのか……?」
 声を掛けても返事がないところを見るとそうらしい。その白い小さな手に手拭いが握られているのは鍛錬を終えた幸村への配慮か。
「起きて下され、つゆり殿」
 そう幸村は肩を揺さぶろうとして、しかし触れる直前で躊躇した。
 なんと細く、薄い肩なのだ。この手で壊せてしまうのではないかと思うくらいだ。着物を着ていてこれでは、実際はもっと。
 そこまで考えて思わず赤面した。眠っている女子を前に何を考えているのだ、自分は。
「っ、つゆり殿!」
 気を紛らわすために大声を出せば、一枚の鱗のような瞼がぴくりと動いた。
「あ、れ……寝て、ました……?」
 無気力な寝起きの瞳が幸村を見上げ、掠れた声が問う。うむ、ぐっすりと。そう伝えると、すっと目が伏せられ睫毛が影を落とす。
「気分はもう、よろしいのでございまするか?」
「あ……はい。全然、大丈夫です」
「しかし、一体どのような夢を……?」
「もう、あんまり覚えてなくて」
「左様で」
 夢とは得てしてそういったものだということは幸村もよく知っている。不思議なものだ。
「幸村さん、汗、凄いですよ」
 つゆりの手が幸村の首筋に手拭いを当てがった。突然の行動に幸村は肩をびくりと跳ねさせる。
「じ、自分で出来ますゆえ」
「そうですか」
「かっかたじけのうござりまする」
 手拭いを受け取り、幸村は鍛錬や一連の流れで噴き出た汗を拭う。心の臓が落ち着かない。つゆりの行動は読めぬ。
「……つゆり殿は、甘味はお好きでござりましょうか」
 脈絡もなく本題を切り出すと、つゆりの瞳がぱっと上がった。
「大好きです」
 どこか嬉しそうなその台詞に、幸村は顔が熱くなるのを感じた。まさか、自分に向けられたことばでもあるまいに。
「では、某行き付けの甘味屋にお連れ致しましょう。勿論、佐助も誘って」
 そんな幸村の提案に、つゆりはこころ持ち首を傾げた。
「幸村さんも、甘いもの、好きなんですか?」
「う、うむ。男が甘味好きなどおかしく思いまするか?」
「いえ。自分が好きなものは好きで、いいと思います」
 そう云って、楽しみです、とつゆりは少し困ったように細い雨の降る空を見上げた。

 朝餉を食べ終え、幸村と佐助とつゆりの三人は城下へとくり出した。つゆりの手にはふたりから貰った紅色の傘が大切そうに抱えられている。
「へえ、旦那から誘ったの!」
 大袈裟に驚いたと思えば、佐助はすぐに意地の悪い笑みを浮かべた。幸村が不愉快そうにぐっと眉を寄せる。
「……なにか不都合でもあるのか」
「いやいや滅相もない。ただ……へえ、あの旦那が」
「しつこいぞ佐助!」
 声を上げると同時に、幸村はなにか視線を感じた。ふと反対側に顔を向ければ、やはりつゆりがまじまじと不思議そうに幸村を見ていた。
「う、つゆり殿?」
「ん? どうかしたの?」
 佐助までもがそう問えば、つゆりは緩く首を振る。艶のある髪がはらはらと揺れた。
「いえ、何でも」
 それきりつゆりも幸村も佐助も黙ってしまったのだが、爽やかな明るい雨空の下の沈黙は決して重いものではなかった。

「ここにございまする」
 昼下がりということもあり、甘味屋は賑わっていた。店内の席はもうほとんど空いておらず、外の長椅子に並んで座ることにする。
 つゆりは餡蜜、佐助は大福、幸村は団子を頼んだ。
「……美味しい」
 運ばれてきた餡蜜をひと口含んだつゆりがぽつりと呟いた。ほどよい甘さに、手作りのやさしい味だ。
「うむ。ここの甘味屋は美味いと評判なのでございまする」
「まったく、旦那のおやつのために並ばなきゃいけない俺様の身にもなってよね」
「幸村さんのおやつは、佐助さんが買いに行くんですか?」
「それも忍の仕事にござりまするゆえ」
「俺様は戦忍なんですけど!」
 佐助が盛大な溜め息をついてみせる。それを幸村は適度なことばで流しながら団子に舌つづみを打つ。
「本当に、仲がいいんですね」
 ふ、とつゆりの口角がわずかに上がった。幸村は思わずはたりと目を瞠る。いつもより少しだけ細められた目に、つゆりが笑っているのだと理解した。
 初めて目にしたつゆりの柔らかい表情は、気を付けていなければ見逃してしまいそうなくらいに危うい。
 相変わらず暗い瞳の奥に、一体なにを秘めているのかなど幸村には図ることもできぬが、珍しいつゆりの笑顔をその脳裏に可能な限り焼き付ける。
「佐助と某は幼い頃からともにおりまするゆえ」
「今と変わらず手が掛かる子だったんだよー。弁丸様は」
「佐助!」
「……そういうの、少し、羨ましいです」
 か細い声で遠慮がちに零されたそれは、しかし紛れもなくつゆりの本当の気持ちなのだろう。
 なぜか無償にこのまま消えてしまいそうな彼女を幸村は己の腕で抱きしめたくなった。
「これから築いていけばよいのでござります、つゆり殿も」
「そうそう。だからさ、」
 普段もそういう顔してたら? 佐助が冗談混じりにつゆりの顔を覗き込んだ。黒の瞳が揺らぐ。
「……え?」
「あら、自分で気付いてないの?」
「無意識でなければ、あのような笑顔にはならぬであろう」
「私……笑って、ましたか」
 素で問われたそのことばに、佐助と幸村は目を見合わせる。どちらともなくからりと笑った。
「それはもう、幸せそうに」
 こうやってひとつずつ確かに歩みよって行けたら、いつかはつゆりの満面の笑みが見られるのかもしれない、と幸村は思う。

 あたたかな雨が降る、美しく晴れた昼下がり。空を仰げば、そこには七色が淡く滲んでいた。




狐の嫁入りにて

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