この時代の夏は現代に比べてとても過ごし易い。だから、つゆりにとっても暑くて寝苦しいなんてことは全くないのだけれど、慣れない環境で安眠することを身体が拒む。
 幸村と佐助は昼間から出掛けてしまったので、つゆりは朝に挨拶を交わしてからふたりの姿を見ていない。
 つゆりはと云えば、信玄とお茶をしたり、女中と適当なお喋りをしたりして一日を過ごした。現代に居た頃よりも確実に充実しているだろう今日のことをつゆりは蒲団の中でひとつずつ思い返していく。
 自分は一体、何をしているのだろう。
 蝋燭だけが頼りとなる暗闇のなか、溜め息を吐き出した。死ぬはずのつもりだったというのに、完全にこの時代の雰囲気に流されている。
 それにしても、寝付けない。今の時刻はおそらく現代で云う午後10時頃。早寝早起きが基本であるここの人たちは、もうすでに夢の中なのだろう。
 つゆりはもぞもぞと蒲団から這い出て縁側に出た。さらに庭へと降りれば薄い寝衣が穏やかな雨でしっとりと濡れていくのが判った。
 手入れの行き届いた庭の少し奥、小さな池に目が移る。
「月、だ……」
 そこで初めて、今夜は月が出ていることを知った。池の元まで近づいてみれば、半月がゆらりゆらりと水面でひかる。
 しゃがみ込んで、つゆりは寝衣の袖が付かないように注意しながら手を伸ばした。冷たい月が波をうつ。
 空を仰げば、手元の月と同じものが無数の星といっしょに浮かんでいた。この世界の星はあまりに綺麗すぎて、つゆりにはひどく異様に思える。
 その眼下の眩しさに手を突っ込む。ばしゃばしゃと掻き乱せば水飛沫とともに月のかけらが弾けた。
「何してるの」
 背後から唐突に聴こえた怪訝そうな声に、つゆりはぴたりと手を止める。水から揚げればきらきらと光が流れ落ちた。月が半円の造型を取り戻す。
「……佐助さん」
 振り返り見上げると、佐助が月明かりだけでもはっきりと判るほどまっ赤な唐傘をつゆりに向けて差していた。
「月がそんなに珍しい?」
 佐助が怪訝そうに問う。その質問につゆりは俯き加減に首を横に振った。昨日のこともあり、何となく佐助の目を直視できない。
「いえ、月が出ているのに、雨が降っていることが、珍しいな、って……」
「あぁ、確かにね」
 狐の嫁入りだ、と佐助がつゆりの腕を引っ張り立たせる。
「あーあ、こんなに濡れちゃって」
「す、すみません……」
「風邪引かないでよ」
 あとこれ。そう云って佐助はそのまっ赤な傘をつゆりに手渡した。
「……え」
「傘、壊しちゃったでしょ。だから、つゆりちゃんに」
「そ、んな。悪いです」
「でも、無いと困るだろ? それに、旦那がつゆりちゃんのためにって職人に頼んで作らせたんだ。貰ってやって」
「幸村さん、が」
「うん」
「……ありがとう、ございます」
 きゅ、とつゆりは傘の柄を握りしめる。佐助がへらりと笑うのがわかった。
「旦那に云ってあげなよ」
「はい。……でも、佐助さんにも、云いたいです」
 佐助は「幸村が」つゆりのために作らせたのだとこの傘を渡したけれど、幸村だけではないのだろうとつゆりは思ったのだ。これはきっと幸村と佐助、ふたりからのプレゼントなのだと。自分の思い込みでもなんでも構わない。
「ありがとうございます、佐助さん」
 佐助は瞬きを一度だけしたあと、ありがとうと静かに返した。それから、ごめんねとも。
「どうして、謝るんですか」
「全部、謝るよ」
「ぜんぶ……?」
「そ。全部」
 佐助の眉がわずかに下がる。そんな、たくさんの気持ちが詰まった『ごめんね』に返すべきことばをつゆりは知らない。
 いいよ。大丈夫。気にしてない。赦してあげる。そのどれも正解にはほど遠いものに思える。もっと気の利いた、優しくて、それだけで救われるような。そんなことばが欲しい。
「つゆり殿! 佐助!」
 つゆりがことばを探していると、縁側からこちらへ向かって叫ぶ声が聴こえた。幸村だ。
「何をやっておるのだ! 濡れてしまうではないか!」
「ちょ、旦那静かにっ。みんな寝てるんだから」
「そ、そうだな。すまぬ」
 急いで口を噤む幸村に、やれやれと佐助がつゆりへ目配せする。困った人だね、とでもいうみたいに。
「それはそうとつゆり殿、早く部屋にお戻り下され」
「あ、ご、ごめんなさい」
「斯様な時刻にいかがなされたので?」
「いえ、少し……眠れなくて」
 幸村が差し出してくれた手ぬぐいを受け取り、濡れた足を拭いてからつゆりは縁側へ上がる。広げていた紅色の傘は丁寧に閉じて。
「じゃあ俺様はそろそろ戻りますかね」
「おお、ご苦労であった」
「おやすみ、つゆりちゃん、旦那も」
「お、おやすみなさい」
「うむ。佐助もよく休め」
 音もなく目の前から暗闇へと掻き消えた佐助を、幸村とつゆり、ふたりで見送った。

 ふと、心配そうな色を帯びた目とつゆりの視線が交差した。
「眠れないとは、なにか気に病むことでも?」
 幸村が問う。
「そんなんじゃ、ないんです。ここに来る前は、もっと、寝る時間が遅かったから」
「それは無理もありませぬな」
 眉を下げて幸村は息をついた。「ここに来る前」がどのようなところであったかなどは幸村には想像もつかないが、生活習慣が違うのならば致し方あるまい。
 つゆりが、ありがとうございました、と手ぬぐいを返すと、幸村は、いえ、と柔らかく微笑んでそれを受け取った。
「あと、傘も。……すごく、嬉しいです。ありがとうございました」
「いえ、喜んで頂けてなによりでございまする。つゆり殿の好みではないかもしれませぬが……」
「そんな、とても綺麗で、こういうの好きです」
「ならばようござりました」
 ほっとした表情の幸村に、つゆりのこころもどこか温かくなる。
 それと、と幸村は苦笑気味に続けた。ずっと気にしていることがあったのだ。
「佐助とも、もう打ち解けてきているようで安心致しました」
「……え」
「朝も思ったのでございまするが、やはりまだぎこちないようにお見受け致しましたゆえ。佐助に、つゆり殿にそれを渡して貰えるよう頼んだのでございまする」
 それ、と幸村が唐傘に目を向ける。つゆりは少し、どきりとした。
 佐助は昨日みたいなことがあっても、さっきのように変わらず接してくれた。自分の拒絶を受け入れて、一定の距離を保ちながらも。
「ここで過ごされる以上、城の者たちとも良い関係が築ければと」
「……」
「あまり気を遣っていては、疲れてしまいましょう」
「幸村さん」
「いかが致しましたか」
「……私は、ここでなら上手に、やっていけますか、ね」
 小さく零した弱音に、つゆりは自分でも少々驚く。隣の幸村を盗み見ればぱちりと目が合った。つゆりは慌ててさらさらと流れる雨に視線を戻す。
「なにかあれば、すぐにこの幸村に仰って下され。微弱ながら必ずやつゆり殿のお力になりましょうぞ」
 なんて真っ直ぐで、真剣な瞳なのだろうか。つゆりはぎゅっと胸がしめつけられるのを感じた。
 この人はいつも、こんなにも、真摯に物事を考えられる人なのだろうか。
 そのほうが、疲れてしまわないだろうか。
「……ありがとう、ございます。幸村さん」
「礼には及びませぬ」
 優しすぎて、壊れてはしまわないのだろうか。




静かなる月の夜

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