宴が終わって、幸村と挨拶を交わしつゆりが部屋へ戻ったことを確認すると、佐助は彼女の荷物を持って降り立った。もちろん、ついに直すことのできなかった傘もいっしょに。
 しかし、つゆりは自分に気づかず着物を脱ごうと帯に手をかけ始めたではないか。それには佐助もぎょっとするしかない。
「待った待った!」
 慌てて声をかけると、予期せぬ制止につゆりの喉が引きつるような音を鳴らした。けほけほと蒸せるつゆりに「ちょっと、大丈夫?」などと佐助はいつかと同じ調子で駆け寄る。
 つゆりは呼吸を整えながら、佐助を見やった。一体どこから入って来たのだろうか。明かりのないこの時代の夜は暗い。いきなり出てこられるとびっくりなんてものではない。
「佐助、さん」
「うん。荷物、預かってたから持ってきたんだけど、驚かせちゃったかな」
「だ、だい、だいじょうぶ、です」
「噛みかみだね」
 佐助がからかうように笑う。つゆりは何も云わないけれど内心穏やかではない。本当に佐助は、色んな意味で心臓に悪い。
 それからつゆりは佐助の背後に視線を移す。自分の鞄と、和弓と、矢筒。それから……あれはなんだろうか。
 ばきばきに折られた針金の残骸。記憶違いでなければ辛うじて銀色に纏わりついているビニール素材を見る限り、紛れもなく自分の折り畳み傘だ。お気に入りの色と柄。
 思わずつゆりはぱちぱちと数回の瞬きを繰り返す。その意識の先に気付いたのか、佐助があーと気まずそうな声を漏らした。
「それ、壊れちゃったんだよね」
 たぶん踏んだかなんかしたんじゃないかな。あたかもやったのは自分じゃないという云いぶりにつゆりは内心で顔をしかめた。
 あの時はつゆりも佐助も必死だったから、つゆりは傘を放り投げたし、佐助はそれを踏んだことなど気付かなかったのかもしれないけれど。
「でも、」
「ん?」
「……踏んだだけじゃ、あんな風にはならないです」
「……うん、ごめんね」
 困ったように眉を下げて佐助が謝る。
「一応、直そうと試みたわけよ」
「……」
「でも流石の俺様も神様の『文明の機器』とやらには太刀打ち出来なかったみたい」
 それを許すことができないほど、つゆりも狭量ではない。むしろ、直そうとした努力の結果があれなのかと微笑ましく思えるくらいだ。
 けれど、たとえおかしな戦国時代だったとしても自分には傘が必需品であることに変わりない。それにとてもお気に入りだったのだ。佐助が悪いわけではないとわかっていながら、内心ショックは隠せない。
「怒ってる?」
「……いえ、そんなに、気にしてません」
 怒っては、ない。
「そう?」
 つゆりの表情を伺うように再度尋ねた佐助に、首を縦に振ることでつゆりは肯定を示す。

 どうしたものか、と佐助は困った。どうにか慰められはしないかと、信玄が初めそうしたようにつゆりの頭を撫でようと手を伸ばす。
 瞬間、暗がりでもわかるほどに大きく見開かれた目。びくりと跳ねた肩。つゆりはほとんど反射的に首を竦めていた。
 背けられ拒絶された手は行き場を失くして宙で停止する。佐助はごまかすように笑って、その手を降ろした。
 よく考えればそれは当たり前の反応だった。人を殺したことさえなかったつゆりに、酷い仕打ちを施したのは他でもない自分なのだ。蹴る。踏む。牢に繋ぐ。水責め。現責め。残酷なことばの数々。もう殺してくれ、と懇願されるほどまでに。
 そして佐助は気付く。自分はこの娘を何だと思っていたのだろうかと。神という異質な存在でも中身は人間とそう変わらない。なにも映さないような瞳は無表情に佇むが、決して、感情がないわけではないだろうに。
「もうすぐ女中が着替え持って来ると思うから、必要なら湯浴み済ませて、ゆっくり休んで」
 おやすみ。顔を上げないままのつゆりにそれだけを残して、逃げるように音もなく佐助は姿を消した。

 ほうとつゆりの肩の力が抜ける。それと同時につゆりの胸にもだんだんと罪悪感がこみ上げてきた。
 目を閉じると脳裏に蘇る。薄暗い牢のなか、前髪を掴み上げられた映像と痛み。ふいに頭上に伸びた黒く光る篭手に、それらがフラッシュバックを起こしたのだった。
 しかしそのあとは、女中が着替えを持ってきてくれた時も、湯浴みの最中も、蒲団に潜り込んで眠る前でさえ、つゆりの頭にはあのこころなしか痛々しい笑顔が浮かぶのだった。そのたびにつきりと心臓のあたりが軋む。傷付けてしまったのだろうか、と。

「佐助」
「なに、旦那」
 翌日の朝、どこか緊張した面持ちで幸村が佐助を呼び止めた。
「傘を、だな」
「傘?」
「うむ。壊してしまったであろう。あのような面妖なものには敵わぬが、城下にはつゆり殿に似合うものを作れる者がいるかもしれぬ」
「つまり、つゆりちゃんに傘を贈りたいってこと?」
「彼女のことだ、無いと困るだろう」
 たしかに、今も雨は降り続いていた。つゆりを見ている限りどうやら雨を降らすことはできても、止ますことはできないらしい。
「いいんじゃない」
「そ、そうか! ではさっそく城下へ参ろう」
「俺様も行くの?」
「当たり前だ!」
 当たり前でも何でもない。そもそも俺様は戦忍だ。佐助は、そう内心では文句を垂れつつも、傘が壊れたのは自分の責任なので渋々ながらついていくことにした。

 評判の良い傘職人を探し、できるだけ早く作ってくれと頼めば、幸いなことに骨組だけできているものがあるから今日中には完成するとのことだった。
「最近、雨続きですからねい。色はどうしやすか?」
「紅でお頼み申す」
「紅ですねい、模様は何か入れますかい?」
「むう……何が良いだろうか、佐助」
「贈るの旦那なんだから、旦那が考えてあげなよ」
「で、では女子に似合う、雨に映えるものを」
 それじゃあ意味ないじゃない。決断力のない幸村に、佐助は呆れた。案の定、抽象的なもの云いに職人もうーんと唸る。
「桜か梅か――」
「いや、紫陽花! 紫陽花で頼む!」
「おお、そうしやそう。今の時期にぴったりじゃないですかい」
「かたじけない」
「では今日の夕刻にでも取りに来て下せい」
 人の良さそうな顔が笑った。ここなら安心して任せられそうだ。
「でもどうして紅にしたの? つゆりちゃんなら藍のほうが合うと思うけど」
 店を出てからすぐ、佐助は幸村に訊ねた。まさか、自分が紅が好きだから、なんて理由ではないだろうけれども。
「つゆり殿の着物は、確か紺に白であったな」
「ああ、あの不思議な」
「紅ならば、あの着物にも映えるであろう」
「なるほどねー」
 佐助はつゆりの着ていた短い丈の着物を思い出す。あれに紅。たしかに、藍より綺麗かもしれない。
「できることならば、ここの着物を着ていて頂きたいものだが、たまに窮屈そうにしているのを見ると無理強いもできぬ」
 はしたなく晒された足を思い出したのか、幸村の頬が少し赤くなる。幸村はどうもおなごというその存在自体に慣れない。
 あの日以来、佐助はつゆりのあの姿は見ていないが、宴であまり食べていなかったところを見ても、云われてみれば苦しかったのかもしれないと思った。
 そして、意外と幸村のほうがつゆりをよく見ているのだと知る。
「何はともあれ、腹が減った」
「へ?」
「傘が出来上がるまで甘味処で時間を潰すとしよう」
「……団子が食べたいだけだろ、アンタ」
「致し方なかろう」

 夕刻、受け取りに行った傘は、それは見事なものだった。




夕暮れ染まる花

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