大広間から連れ出されると、雨のせいで湿気を含んだ風が髪を揺らした。
「ゆ、きむら、さん、わたし、」
「大丈夫にございまする」
「わたし、ひと、」
「つゆり殿は、某が恐ろしいとお思いになられまするか」
 つゆりの丸まった背中を撫でながら幸村が問う。つゆりは一心に首を横に振った。どうしてそのようなことを訊くのかわからない。
「某とて、戦にて人を殺めまする」
 ひゅっ、とつゆりの喉が情けなく鳴った。
「この手でもう幾人もの兵を切り捨てておりまする。致し方なかったのでござりますれば、つゆり殿」
「ゆき、むら、さ……っ」
「落ち着いて、息を吐いて下され」
 ゆっくりと背中を擦る手に合わせてつゆりは肺に溜まった空気を吐き出す。苦しかった。胸が痛いほどに。
「楽に、なりましたでしょうか」
「あ、りがとう、ございます」
「つゆり殿、某は感謝しておりまする。つゆり殿があの者を射抜かなければ、某が死んでいたはずでございます」
 幸村の静かな声を聴きながら、つゆりは呼吸を繰り返した。
「人を殺めることは易いことではござりませぬ。人の命は尊い。しかし、守るべきものがあるのもたしか。お判り下さいまするか」
 つゆりは今は背中を撫でてくれている、幸村の手を思い出す。先ほど自分の手をとってくれた、大切なものを守るための手。
「しかし、あの間者とて、それは変わりませぬ。だからこそ、つゆり殿は……某も、しかと生きていかねばなりませぬのだ」
 そのことばはずっしりとつゆりのこころに重くのしかかる。つゆりはひとつ、うなずいた。

 だいぶ落ち着いた頃、幸村が労るようにつゆりに尋ねた。
「もう少し、ここにおりまするか?」
「私も、戻ります」
 武田信玄公の『頼み』を聴きたいんです。つゆりがそう返せば、幸村はまたやさしく彼女の手を取った。今度はつゆりも少しだけ、握り返すことができた。

 幸村といっしょにつゆりは信玄のもとへと戻り、その前に座した。わいわいと騒いでいた武田軍の者たちの半分近くはもう酔い潰れてしまっていて、場はここを離れた時よりも幾分か静かだ。
 つゆりの見知らぬ家臣と酒を飲み交わしていた信玄が、もう大丈夫なのか、とつゆりを心配する。
「取り乱して、申し訳ありませんでした」
「謝ることなどあるまい。初めてとなれば無理もなかろうて」
「某とて初陣の時は足が竦んだもの。気に病むことはございませぬ」
 幸村までもが気を遣ってくれたが、当然、人を殺したことを咎めてくれる者は誰もいない。つゆりはここが戦国の世であるのだと改めて思い知らされた。自分の持つ「常識」は一切通用しないのだ。
 武田信玄公。つゆりの呟くような呼びかけに、信玄は柔らかな笑みを浮かべた。つゆりは本題であったはずのそれを続ける。
「その、頼み……というのは」
「うむ。その優れた弓使いに武田弓隊の指南役を頼みたいと思うたのじゃが」
 優れた弓使い。それが自分を指すことばなのだと気づくのにつゆりはいささかの時間を要した。なんだか胸の奥がくすぐったい。隣で幸村が身を乗り出すように信玄を見上げる。
「それは名案にござりまするな!」
「そうであろう。しかし、お主の反応を見る限りでは辞めておいたほうが良いかもしれぬな」
「い、いえっ、ぜひ、やらせて下さい」
 その頼みに応えるべく、つゆりはむしろできる限り丁重に申し出た。幸村や佐助が自分にそう謝ったように、深く頭を下げて。
 いくら人付き合いが苦手と云えど、自分とてこのくらいの礼儀はわきまえているつもり、だ。
「……これからここでお世話になるからには、私にできることなら、何でも、やりたいです」
 やらせて下さい。再度そう繰り返す。
「面を上げい」
 威厳のある声につゆりはゆっくりと頭を上げた。声とは裏腹に信玄の目元はやさしくほころんでいる。視界に映したその表情につゆりは安堵した。
「そこまで申すならば頼むとしよう」
 つゆりはこくりとうなずいて、ありがとうございますと小さくお礼を述べる。すると、傍らでつゆりたちの会話を聴いていた家臣の者がそれは嬉しそうに声を上げた。
「皆聴け! 雨神様が我ら弓隊の指南を承って下さった!」
「おお!」
「なんと!」
 ほろ酔い状態の家臣たちがつられて騒ぐ。どうやら声を上げた者は弓隊のひとりであるらしい。 決して軽い気持ちで請け負ったわけではないが、今さらになってつゆりはその責任の重大さに圧倒される。
 つゆりのたしなんできた「弓道」が彼らの戦に役立つのかどうか、考えてみれば甚だ疑問だ。そもそもつゆりには指導経験もなければ云わずもがな実戦経験もない。
 たった一度、人を射ただけで竦み上がり取り乱すような自分が指南などできるだろうか。
「雨神様、どうぞよろしくお願い致します」
「こっこちらこそ……っ」
 人好きのする笑顔で丁寧な挨拶をされ、つゆりはそう答えるので精一杯だった。それにしても、その「雨神様」という呼び名はどうにかならないものだろうか。
「疲れておるだろう、今日はもう休め」
 案じるように信玄がつゆりの頭を大きな手でわしわしと撫でる。
 たしかにひどく疲れている。慣れない環境、知らない人々。つゆりにとってストレス以外の何ものでもないことばかりだ。
 しかし不思議と、変に息が詰まるようなことももうほとんどない。
 つゆりは信玄のことばに甘えることにして、ありがとうございますと短く返事をしてから立ち上がった。
「今使っておる客間をそのままつゆりの私室にして構わぬ。幸村、連れていってやれ」
「はっ。それでは失礼致しまする」
 幸村が深々と頭を下げてから立ち上がりつゆりの前を歩いていく。つゆりもそれに倣って最後にお辞儀をしてから大広間を出た。

「では、よくお休みになって下され」
 つゆりの部屋として与えられた客間の前で幸村がふわりと優しさの漂うような声とともに立ち止まる。
「幸村さんも、お休みなさい」
 緊張して最後はほとんど空気みたいになってしまったが、つゆりのそんな就寝前の挨拶に幸村はやはり優しげに口元を緩めて歩いて来た廊下を戻っていく。身内以外にお休みなさいを云う機会など滅多にないからか、とても妙な心地だった。




甲斐の虎の頼み

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