夕方、佐助の云ったとおり女中がふたり、つゆりの部屋へやって来た。
「雨神様、まずはお怪我を見させて頂きますね」
 ひとりは侍医だったらしく、触診から始まり、次につゆりの包帯を巻き取っていく。背中でぺりぺりという音を立てながら剥がれていくそのあまりの痛さにつゆりの視界には涙が滲んだ。
「やはり膿んでしまいましたか」
 侍医が労るようにつゆりの背中を見た。なるほど痛いわけだ、とつゆりは納得する。おそらく、背中を木に打ち付けた時に擦ったのだろう。
「痕が残らなければいいのですが……」
 背中や腕、手などいつの間にかできていたあらゆる傷に薬を塗り込まれる。まったく知らない人に身を案じてもらうというのはとても不思議な感覚だ。
 最後に痣を冷やすため、侍医が桶に浸してあった手拭いを絞り、つゆりの脇腹に当てる。あまりの冷たさにふるりとその身が震えた。
「それにしても、どうしたらこんなになるのです?」
「……その、森で、転んで」
 まさか佐助にやられたなんて云えるわけがないので(云うつもりもないが)、やんわりとつゆりは適当に返す。侍医もそうですか、と深くは問わなかった。

 新しい包帯を巻き直したところで、女中が着物を何着か風呂敷を敷いた上に並べる。
「雨神様にお着物をご用意致しましたので、着付けさせて頂きますね」
 思わずつゆりはたじろいてしまった。高級そうな紫陽花色にきらきらと細かい刺繍が彩るそれ。とてもじゃないが自分なんかが着られる代物ではない。
 つゆりが考えあぐねていると、お気に召しませんか? と不安そうに女中が尋ねた。
「い、いえ……その、わ、たし、こんな高価なもの、着れません……」
「まあ、雨神様がなにを仰いますか。ご遠慮なさらないで下さい」
「でも、」
 こんなにもよくして貰う義理など小指の爪ほどもないというのに。渋るつゆりに、しかし女中は優しく微笑んだ。
「この着物色は紅掛空色と申すのですが、空から甲斐へ降りてこられた雨神様に、ぴったりでございましょう?」
「べに、かけそら色……」
「その名の通り、空色に紅を掛けたお色にございます」
 とてもお似合いだと思いますよ、そう上品な着物を広げられれば、もう逆らうことは出来なかった。

 その頃、佐助はあるものとひとり、格闘していた。ぱきん、小気味好い音とともにまたひとつ銀の骨が折れる。
「さ、佐助」
 幸村が困ったように零した。
「うん」
「それはもう触らないほうがいいのでは……」
「旦那もそう思う?」
「……うむ」
 だよなあ、と呟いて、佐助はおずおずとうなずく主から目の前の残骸とも呼べるものに視線を落とす。
 回収したつゆりの荷物のひとつ、小さく収納できる雨傘。壊れていたそれを直そうといろいろいじってみたものの、異質なそれにはいくら優秀な忍隊長でもお手上げだった。
 まず第一にどこが壊れているのか判らないほど難解に折れ曲がっている骨。広げてみればどこかが可笑しいことはたしかだというのに。
 それから、脆弱な素材。細い骨はいとも簡単に折れてしまうし、鮮やかな薄い布は佐助が少し篭手に引っ掻けただけで裂けてしまった。
 なんと云っても幸村でさえもうやめたほうがいいと云うほどである。
「どうしよ、これ」
「使いものになりそうにないな」
「……怒るかな」
「……俺は知らぬぞ」
 雨神殿を怒らせたりした日には天罰が下るかもしれぬ。そう身を震わせた幸村に佐助は溜め息をついた。もしそうなら、自分はとっくのとうにお陀仏だろう。
 それに、彼女は人に罰を下すような真似はしないように佐助には思えた。それには幸村も気付いたのか、すぐに、つゆり殿のことだからないとは思うが、と零す。
「もうすぐ宴でしょ。つゆりちゃん迎えにいってあげなよ」
「そうだな」
 立ち上がり部屋から出ていった幸村を見送って、佐助は再度目の前の傘だったものと格闘することにした。

 幸村が佐助を置いて自分の部屋から出たときには、つゆりはもう着物も着付け終わって、ひとり、迎えを待っている状態だった。妙に落ち着かないのは、おそらく、きらびやかな着物を着せられているせいだ。
「つゆり殿、幸村にございまする」
 しばらくして襖の向こう側から投げられた声。緊張の見えるそれにつゆりまで身が固まる。どうぞ、と返すも小さな声は届かなかったらしい。慣れない着物を引きずってつゆりは襖まで近寄った。帯が少し苦しい。
「う、おっ」
 すっと平たい戸を滑らせれば、突然のことに驚いたのか幸村が素っ頓狂な声を上げた。
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いや……某こそ」
 沈黙。重たい空気につゆりの目線は自然と敷居に留まる。気持ちが焦る、逃げたい。
 すると、すうっ、という深く大袈裟なまでの呼吸音がつゆりの頭上で聞こえた。
「宴の準備が整いましたゆえ、お迎えに上がった次第にござりまする」
「あ、はい……」
「では、参りましょうぞ」
 促され、つゆりは廊下を幸村のあとに続き歩いていく。この前のように裾を踏んで転けるなんてことはしたくないと、着慣れない着物はつゆりのコンパスを自然と短くした。必然と幸村との距離がだんだんと広がっていってしまう。
「つゆり殿?」
 幸村の足が止まった。
「ご気分でも優れませぬか?」
「ち、ちがっ」
 はて、と首を傾げる幸村に、つゆりは「違うんです」ともう一度小さく零した。
「着物なんて着ること、滅多になくて、だから……」
 この時代の人たちは着物が当たり前だというのに、それに倣えない自分がつゆりはとても恥ずかしく思えた。しかしそれは仕方のないことで、できることなら、好きな服装で居たいのだが。
「とても、お似合いにござりますれば」
「……へ、」
「顔をお上げくだされ」
 また下を向いていたらしいと、つゆりはおずおずと幸村の顔を見上げる。幸村はふんわりと優しい表情を携えてつゆりを見ていた。
「せっかくの映えるお顔が勿体無うございまする」
「え、う」
「雨神殿は此処へ降りた折は不思議な形の着物を着ていらっしゃいましたな」
「ああ、あれは……」
「こちらの着物に慣れぬのも無理はありませぬ」
 あまり気負わずに、そう云ってさりげなく、本当にさりげなく幸村はつゆりの手を取った。
 男子と手を繋いだことなどないつゆりはまともに握り返すこともできない。ただ自分に合わせてくれる歩調を崩してしまわないよう、慎重に歩くのが精一杯だ。
 やましさなんて欠片もない、歩きづらそうなつゆりを思っての紳士な手。厚い皮膚は、いつか槍を握っていた姿を思い起こさせる。きっと、すごく努力家なのだ。手だけでこんなにもそれが伝わってくるのだから。
 幸村もつゆりもそのあとはなにも喋らなかったが、さっきの沈黙とは違ってとても安らかな時間だった。

 大広間の前で大きくて温かな手は離れた。
「雨神殿をお連れ致しました」
 おおっ、と感嘆の声が漏れる。つゆりの心臓がどきりと跳ねた。当たり前だけれど知らない人ばかりで、思わず後ずさる。
「おお、入れ入れ」
 武田信玄が上機嫌に手招きをする。幸村にも背中を押され、つゆりはひとつ会釈をしてから歩みを進めた。しっかりと、顔を伏せないように意識して。
「着飾るとさらに見目麗しいのう」
 ふむ、とおおらかな笑みを浮かべてつゆりを見たあと、信玄は立ち上がって宴の席に集った者たちに向き直る。
「この娘こそが甲斐に慈雨をもたらした雨神よ! みな盛大に歓迎してやれい!」
 そのひと言にわああ! と臣下たちが沸いた。
「つゆりと申したな」
「え、あ、はい」
「ここへ来て好きなだけ食べて飲むと良い」
「あの、」
「腹も空いておろう?」
「……はい。あ、ありがとうございます」
「なに、気にせんでよい」
 楽しそうに騒ぐ他の者たちを満足げに見て、今宵は無礼講じゃ、と信玄はお酒を仰いだ。本当、至れり尽くせりだ、とつゆりはどぎまぎしながら思う。
 用意されていた和食はどれも美味しそうで、静かに手を合わせた。
「い、いただきます」
「よしよし、たくさん食うとよい」
 信玄の大きな手がつゆりの髪をかき混ぜた。驚きつつも箸を取って、ご飯を口に運ぶ。美味しい。
「幸村もこちらへ来ぬか」
「はっ、失礼致しまする」
「つゆりもお主が傍に居たほうがやりやすいであろう」
「は……、なにゆえ、そのように」
「見たところ幸村とつゆりは年があまり変わらぬな?」
 信玄が幸村とつゆりを交互に見やる。云われて初めて、たしかに、とつゆりは気付いた。喋り方がしっかりしていて大人びていたから気付かなかったが、よく見ればその顔つきはつゆりの時代で云う高校生と変わらない。
 もぐもぐと上品な和の味を堪能しつつ、その整った横顔をこっそり盗み見ていると、ぱっちりと目が合ってしまった。つゆりは急いで口の中のものを飲み込む。
「……す、すみません」
「いえ。あの、つゆり殿」
「は、い」
「つゆり殿さえ宜しければ、もうしばらく甲斐に身を置いてはいかがでございましょう」
「……え、と」
「本当に帰る手立てがあるのならばなにも云いませぬが……」
 佐助に、つゆり殿は森で迷っていたとお聴きしましたゆえ、と幸村が案じる。ゆえにそうしてくれたのなら、どんなに気が休まることだろう。彼のそんなこころの声が聴こえてくるようだった。
 つゆりにとってそれは思ってもみない提案だった。そっと窺うように信玄を見上げると、うむと彼は寛大にうなずいてくれる。
「い、いいん、ですか……? 私、なにもできません、けど」
「おお! そうであったわ! 雨神よ、ワシからお主に頼みたいことがあってのう」
 思い出したように信玄が杯を置く。お館様? と幸村がぱちくりと大きな目を瞬きさせた。
「お主、弓矢を上手く使いこなすそうじゃのう。佐助や幸村から聞いたぞ。刺客の心の臓を遠く崖の上から見事に射抜いたと」
「へ……しんの、ぞう?」
 心の臓。心臓。つゆりは全身の血液がさああっと引いていくのを感じた。心臓を、射抜いた。箸が手から滑り落ちて、陶器にぶつかり甲高い音を鳴らす。
「ど、どうなされましたか、つゆり殿」
 幸村の心配そうな声がつゆりにはいやに遠くに聴こえた。ひゅうひゅうと喉が酸素を求めて啼く。苦しい、苦しい。
 心臓を、それはつまり、殺したということだ。そんなつもりはなかったのに。自分、は、この手で。
「あの、ひと、死んだ……んですか」
「そうか、雨神は人を殺めたことがなかったか」
「あ、あ……わたし、」
 つゆりの身体が恐怖に震える。たしかに、ひどくかっとなっていて状況が把握できていなかった。けれど、ただ、動きを止めるだけで、それだけで充分だったのに。
「落ち着いて下され、つゆり殿」
「や、だ、わた、し」
「お館様、少し外の空気を吸わせたほうが、」
「そうじゃの、連れていってやれ」
「立てまするか」
 幸村がつゆりの腕を掴む。つゆりの、人を殺した手を。あの日素手で弓を引いたがために切れた指先が、今頃になってじくじくと痛み出した。




大きな手のひら

- 11 -


×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -