ふ、とつゆりは詰まっていた息を小さく吐き出した。改めて目の前の男に向き直れば、彼は人の良さそうな顔を浮かべている。
「名は何と申す」
「つゆり、です」
「ほう、良い名じゃ」
 それと同時に後ろから小さく雨神殿にも名があったのか、という声が聴こえた。そもそも自分は雨神様とやらではない。
 つゆりは彼らを知らない。それは相手も同じで、おそらく、自分だけが部外者であろうことは云わずとも知れた。
 いくら『相手の名前を訊くときは自分から名乗るのが常識』といってもつゆりから名乗らせるのは最もだ。
「あの……」
「む?」
「あなた、は」
 けれど、自分だけ何も知らないというのは些か困る。恐る恐る尋ねてみれば、男は一瞬だけ目を見開いたあと、豪快に笑った。
「そうじゃったの。空から落ちてきた雨神がワシのことなど知るはずもないわ」
 わっはっは、と至極楽しそうに笑う男につゆりはついていけず、ただ身を固めて返答を待つ。そんな彼女に気付いてか、すまなんだとひと言、男は笑うのを止めた。
「ワシはこの甲斐の地を治めておる、武田信玄よ」
「……は、」
 今、なんて? つゆりは思わず訊き返してしまうところだった。聞き間違えでなければ目の前のこの男はかの戦国武将・武田信玄だという。本当なら大変な有名人だ。
「それから、後ろに控えておるのが」
「真田源二郎幸村と申す!」
「俺様は真田忍隊隊長、猿飛佐助」
 眩暈がした。
 どれも歴史が得意でない人だって一度は耳にしたことのあるような名前だ。しかし、つゆりの知っているそれとはひどく食い違っている。武田信玄に仕えていたのは真田幸村ではなく、その父親の真田昌幸のはずだ。
 それならここは、死後の世界でもなければ自分の生きていた世ですらないというのか。
「そなたには感謝せねばならぬことがある」
 自らを武田信玄と名乗る男が云う。つゆりは呆然と、その続きを聞き入れるしかなかった。
「この甲斐の地に雨を降らせてくれたこと、まことに助かった」
「雨……」
「もう幾月も甲斐はおろか日ノ本に雨が降らなんだ。田畑がみな干乾びてしまうところだったわ」
「そう、だったんですか」
 どうやら自分は、こんな世界にまで雨を連れてきてしまったらしい。それがつゆりの役目と、死ぬにはまだ早いと、神様が判断した結果なのだろうか。
「某からも心より感謝申し上げまする」
「本当、助かったよ」
 ひとりはほとんど土下座、ひとりはへらりと笑って、つゆりに向けてそう云った。つゆりは少なからず衝撃を受けた。今まで疎まれる以外の何ものでもなかったこの不運を、感謝されている。
「いえ、こちらこそ助けて下さってありがとうございました」
 私、空から落ちてきたんですよね、と確認の意味も込めて問えば、うん、びっくりしたよーと他と比べ随分と軽い声が答えた。
「しかし、何故この甲斐の地に降りて来たのじゃ」
「私にもよく、わからない、です……」
 なんて答えたら良いのかわからなかった。彼らの中でつゆりは神様になっているのだ。下手なことは云えない。そうかと云って、たったいま出会ったひとたちに事実を伝えるのも憚られた。長居もしたくはないため、考えた末、嘘でもないが真ともつかない返事を返す。
「その……あ、足を、滑らせてしまって」
「随分ドジな神様なんだね」
 うっ、とことばに詰まる。本当、訂正するのも申し訳なく思ってしまうくらいに信じきっている。ますますつゆりは云い出せなくなった。
「私、帰ります」
「なっ、何処へ帰られるというのでございますか!」
「そ、空……ですかね」
「帰れるの?」
「……来られたなら、帰れる、はず」
 いたたまれなくなって腰を上げると、さらに飛んできた痛い質問。しかしそれは、つゆりも疑問に思っていたことだ。……自分は本当に生きているのだろうか?
「ひとつ、訊いていいですか」
「何でも訊くとよい」
「私、生きてます、か?」
「む? 生きておろう」
「そう、ですよね……。帰ります」
 ああ、生きてる。自分は死にたかったのだ。けれど、もしこの世界が死後の世界であったなら死んだ意味がない、とつゆりは思った。
 つゆりは「つゆり」という存在自体を、この世から消し去りたかったのだ。意識なんてものは失くして、深い深い闇の底でただひとり眠りたい、と。
 どちらにしても、生きているならもう一度身投げでもなんでもしなければならないことになる。ただこんな似非戦国時代に落とされたのは皮肉だ。
 それこそ神は、命を粗末にしてはいけない! とつゆりに説教でもしたかったのだろう。
「お、お待ち下さいませ!」
「旦那?」
「外はいま、激しい雨に見舞われており、ましてやもう日も暮れる頃にございますゆえ、せめて一晩こちらに身を置いてはいかがでござりましょう……!」
 真田幸村が懇願とも云える形でつゆりをまっ直ぐに見つめた。何か、帰したくない理由でもあるのだろうかと考えを巡らせれば、ああ、雨が止んでしまうからか。そう納得する。
「いえ、悪い、ですから」
「しかし……!」
「雨も夜も平気です。どうにかして、帰らないと」
 今度こそ立ち上がって、それからはたと気付く。そういえば、鞄とかはどうしただろうか。
「すみません、えっと……」
「ああ、荷物ね。ちょっと待ってて」
「あ、ありがとうございます……」
 お礼を云い終わる前に猿飛佐助はぱっと姿を消してしまった。本当に忍者なのだ。やはり、どう考えてもこの世界はどうもおかしい。
 しばらくして戻って来た佐助の手にはスクールバッグと和弓に矢筒、それからセーラー服。よかった、とつゆりは安堵する。すべて無事のようだ。

「お世話になりました」
 着替えたあと、城の外まで見送ってくれた三人にできるだけ丁寧につゆりはお辞儀をする。それから、常に持ち歩いている折り畳み傘を鞄から取り出してばっと広げた。
「おお!」
「な、なんと……!」
「うわー、なにそれ便利!」
「……ぶ、文明の利器、です」
 多少違う気もしたけれど、三人の反応に適当に返してつゆりは歩き出す。ぴしゃりぴしゃりと踏み出す度に雨が跳ね上がる。浴衣とは似つかない、短いスカートがひらりと踊った。




帰り道を探して

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