夜が更けても、雨はしとしとと降ったり熄んだりを繰り返しているようだった。小さなグラスにウイスキーをそそぐ。甘やかだけれど落ち着いた香りが、こぽりこぽりと瓶の口から立ち上り、広がる。
「はい」
「Thanks」
 ソファに並んで、軽い音を鳴らしてグラスを合わせた。透き通った褐色の水面が弾けて、暖炉の灯りを反射する。そのあたたかな煌めきが綺麗だ、と思う。
 政宗くんはグラスに口をつけると、ぐいと一気にウイスキーを煽った。それとは対照的に私は少しずつ口に含んで嚥下していく。ぴりりとアルコール独特の刺激が喉を刺す。
「美味いな」
「それはよかった」
「頼む、ついでくれ」
「政宗くん、」
「頼む」
 半ば無理やり彼のグラスを手中に収められ、断ることもできずにウイスキーを瓶からそそぎ入れる。すると、政宗くんはやはり喉を焼くようにお酒を呑んでいくのだ。頼まれるがままに幾度も幾度もそれを繰り返した。

 その柔らかな頬にほんのりと紅が差し始めた頃。琥珀色の魔法を借りてか、薄い唇はやがてゆっくりと開かれた。
「冬は、傷が痛む」
 静かに落とされたことばは、波紋となってゆるやかに夜の空気に広がっていく。
「失くしたはずの右目が疼くんだ」
 私はグラスを弄びながら、政宗くんの声に耳を傾けた。
「思い出すんだよ、嫌でも」
 脳を焼くような熱さ、生きながら膿んでいく感覚。眼球を抉られたときは、喉が痛くなるほどに叫んだ。身内で唯一の理解者だった父もこの手で殺めた。母の蔑みを滲ませた目線も、毒を盛られたあの時の飯の味も、弟を手にかけた瞬間の喩えようのない苦々しさも、すべて生々しいくらいに覚えていて、忘れられない。
「だから、冬は嫌いだ」
 云いながら、政宗くんは片手で右目を押さえこんだ。断片的に紡がれる彼の記憶は、ひどく痛々しくて、悲しくてたまらなかった。それこそまるで、悲劇を描く闇色の童話だ。しかし、この物語は決して空想のものではない。
「……アンタだって、きっと醜いと感じると思うぜ」
 掠れた声が自嘲気味に零す。なんとも云えない気持ちが胸のうちに広がった。朝方、目覚める前に見ていた夢がどんなものであったのか、そこにはたしかに感情があったはずなのに、なにひとつ思い出せないような。そんな、もどかしさ。
「顔を上げて」
 俯く頬に手を寄せる。ひとつだけしかない彼の目が、ゆっくりと私を映し出した。最初に感じたのとなにも変わらない、世界の痛みをすべて抱え込もうとして必要以上に傷ついた左目。
「オレは、アンタに嫌われるのが怖いんだ、ゆきめ」
「じゃあ、先に云っておくよ」
 瞼を閉じて、こつん、と額を合わせる。
「私は、政宗くんが好きだよ」
 驚くほど簡単に、そんな科白が口をついて出た。決してこの場限りの安い同情から生まれた感情ではないのだ。彼が戦国武将であるとか、この時代の人間ではないとか、そんなことはもはや関係ない。
「ひとりの人間として、いま目の前に居る伊達政宗を、私は愛してる」
 そう云って、重ねた額をそっと離す。政宗くんは眉を歪めて、目を細めて、いまにも泣き出しそうな顔で小さく笑った。
「オレもだ。ゆきめ」
「ラヴのほうだよ、政宗くん」
「当たり前だろ」
「相変わらず素直じゃないね」
「うるせえ」
 軽口を叩く政宗くんに私はすこしほっとする。たまにこうして弱さを見せる、人間らしい彼が好きだけれど、有無を云わせない不敵な笑みもまた、私はとても好きなのだ。

 しばらくして、政宗くんは私の手を取ると自分の右目を覆う眼帯に触れさせた。彼の手のあたたかさに対して、刀の鍔の硬い冷たさが火照った指先をひんやりと伝う。
「……外してくれ」
 そして、たしかにそう云ったのだ。
「いいの?」
「ぜんぶ、知ってほしいんだ」
「わかった」
 両手を政宗くんの後頭部に回す。柔らかい黒髪に手の甲をくすぐられながら、眼帯の紐を探り当てた。
「失礼、」
 断ってから、結ばれた紐の両端をするりとほどく。重い眼帯は重力に従って、簡単に政宗くんの右目を離れた。
「政宗くん、」
「……」
 両目を固く閉じたまま、彼はなにもことばを発しない。眉間にはゆるく皺が寄っている。
 私は眼帯を膝の上に置いてから、政宗くんの右目に触れた。引き攣れた皮膚は硬く、天然痘特有の瘢痕も残している。この右目を抉った政宗くんの右目自身も、ひどく胸を痛めたことだろう。
「右瞼は、開かないんだね」
「……ああ」
「そう」
 お世辞にも綺麗だなんて云えない右目。けれど、もう開かない瞼の向こうには、政宗くんにとって大切ななにかがたしかに閉じ込められていて。私はできる限りやさしく、その瞼に口付けた。
「素敵だよ、政宗くん」
 彼の首に両腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。とくとくと鳴る規則正しい心音が、お酒で火照った高い体温が、いまここに彼が居るということを疑いようもなく感じさせて、どうしようもなく満たされた心地になる。
「これでも、好きだって云うのか」
「何度だって云うよ。政宗くんが好き」
「……Thanks, I love you too」
 照れ隠しで紡がれた英語が鼓膜をさらさらと震わせた。そんな穏やかさとは裏腹に、背中に回された腕は痛いくらいに私を締め付けて、心臓までいっしょに握られているのかと思うほどに胸が苦しくなる。

 彼は、神様に嫉妬されたに違いない。生まれたとき、あまりにも彼が完璧だったから、神様は枷を与えずにはいられなかったのだ。
 そんな気休めにもならないことばを私が零すと、政宗くんは、だろうな、と喉を鳴らしてくつくつと笑った。




時雨に囁く

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