澄んだ空気に茜が差していた。白いはずの雪は淡い橙色に染まっている。夕焼けは夏の季語だけれど、冬もまた鮮やかで綺麗だ。

 重くなった荷車が雪に足を取られながら、キシキシと不規則な音をたてる。思うようにまっ直ぐ進まない小さな車輪に政宗くんがその端正な顔を歪めた。
 眉間に皺が寄っている。私が後ろを振り返ったことにも気づかないほど、荷車を押すことに集中しているらしい。そんな彼を微笑ましく思っていると、視界の隅でぴょんとなにかが跳ねた。
「わっ、政宗くん」
「あ?」
「危ない」
 そう告げたのとほとんど同時に、うおっ、なんて政宗くんは短く声を上げた。雪に紛れてしまうほどまっ白な野うさぎが荷車の前に飛び出してきたのだ。
 つぎの瞬間にはカラカラと音を立てて枯れ枝の小山が足下に崩れ落ちる。政宗くんが荷車を倒してしまったらしい。
 雪色の野うさぎは木の実のような赤い瞳を一度だけこちらに向けると、すぐにふわふわの毛を夕陽に煌めかせて、なに食わぬ顔で草陰へと消えてしまった。
「だいじょうぶ?」
「ああ、わりぃ」
 謝りながら政宗くんが倒れた荷車を起こす。
「いまの、rabbitか」
「うん、かわいかったね」
「ったく、こんなところに出てくんなよな。狩られるぞ」
「ここには狩人なんていないけれどね」
 そう笑うと、うさぎは食わねえのか、と純粋な質問が返ってきた。食べるひともいるのかもしれないけれど、私は食べないよ、と答える。
「へえ、鳥は食うのにな」
「鳥、関係ある?」
「仲間だろ」
「うさぎが、鳥の?」
「一羽二羽って数えるじゃねえか」
「ああ、そっか」
 納得。数え方はその名残で、きっと長い耳が羽根の代わりだったのだ。おそらく江戸時代あたりまではごくふつうに食べられていたのだろう。いまだって日本でも外国でも食べるひとは食べる。
 私が、かわいかったね、なんて云ってしまったから、政宗くんはそれを口に出さないだけで。
 屈み込み、ちらばった木の枝を拾い上げて荷車へと積み上げていく。小さな山が少しずつまた高さを取り戻していった。

 夕陽はあっという間に沈み、あたりは鬱蒼と暗くなってきた。まっ直ぐ歩いて木々を抜けたら、すぐに家の正面へと出る。荷車は玄関脇に止めてもらって、私はドアの鍵を開けた。
「おかえり、政宗くん」
 政宗くんを先になかへと促す。けれど、彼はその足をぴたりと止めて私を振り返った。切れ長の左目がわずかに見開かれている。
「どうかした?」
「……いや、ただいま」
 数秒の間を置いて長い足は奥へ進む。私は玄関に出しておいた大きめのカゴに、暖炉の傍に置く分だけの薪を移して、それを運び入れた。
 ドアを閉め、鍵を回す。
 コートのボタンをはずす俯きがちな背中に、おかえり、と私ももう一度だけ胸のうちで繰り返した。
 おかえり、政宗くん。
 部屋へと上がってすぐ、暖炉に火を入れた。残り少なくなった薪は気にせず放り込み、拾ってきたばかりの薪は火室に焼き網を差し入れてそこに並べる。水分を飛ばすために。
 ふと窓辺に目を向ける。政宗くんが雪に濡れたふたり分のコートをハンガーにかけてくれていた。こころなしか丸まった広い背中に思わず口もとがゆるむ。
 猫みたいだ。
 そう思った。ソファの傍らに畳んであった毛布を忍び足でひっぱっていって、その寒そうにたたずむ背中をぎゅっと包みこむ。
「うおっ、なにすんだ」
 驚いたような声が腕のなかで上がった。たったいま彼が干してくれた二着のコートがカーテンレールの下で揺れる。
「政宗くんは、寒がりだから」
 毛布ごと抱きしめたまま云った。
 ふわふわの生地から伝わるぬくもりが、どうしてか、とても尊いものに思えた。
「いま、あたたかいミルクを淹れてあげる。待っていて」
 名残惜しくも、心地好いそれから身を離す。すっと冷たい空気が通った。

 沸騰する寸前まであたためたミルクを、それぞれのマグカップに移して持っていった。ソファの上、毛布にくるまる政宗くんにお砂糖少なめのほうを手渡す。
「Thanks」
「どういたしまして」
 まるで照れ隠しのように紡がれた英語に、無難な答えを返した。隣に座ると昨夜と同じように毛布を半分わけてくれる。すでに政宗くんの体温が移ったそれは、やさしいぬくもりで私を背中から包みこんだ。
 政宗くんはこくりと喉を鳴らしてミルクを嚥下すると、ひとつ息をついて、
「アンタはずっと、ひとりだったのか」
 おもむろにそう呟いた。私もマグカップを一度傾けてから、違うよ、と否定した。
「ひとりで暮らし始めたのは数年前からで、それまでは家族といっしょに居たよ」
「まあ、そうだろうな」
「わかっているのに訊いたの」
「確認しただけだ」
 ひとつしかない瞳を伏せて、ホットミルクを口に含む。その表情が私には曇っているように見えた。ゆらゆらと立ち上る湯気のせいだったらよかったのだけれど、もちろんそんなはずはなくて。
「ずっとひとりだった奴が、あんな『おかえり』を云えるわけがねえんだ」
 アンタはそのあたたかさを知っているんだな、ゆきめ。
 小さく苦笑してミルクを飲み干すと、政宗くんは空になったマグカップをテーブルに置いた。コトン、という音がやけに大きく響く。
「政宗くん」
「あ? な……」
「きみだって、ひとりじゃないはずだよ」
 片方の手のひらを政宗くんの頬に添えた。私を映す鷲色の綺麗な瞳は不安や臆病さをたたえて微かに揺れている。
「少なくとも、ここに居るあいだはひとりじゃないでしょう」
 長い睫毛が縁取る目じりを、親指でそっとなぞる。そこから涙が溢れてくるのではないかと、思ったのだ。
 けれど、政宗くんは猫のようにその目を細めただけだった。
「...Sorry, 気がゆるむと、だめだな。余計なことを考える」
「余計なことなんかじゃないと思うけれど」
 それに、ほら。なんて云ったのだっけ。
 目線を宙に彷徨わせて、少し前に聴いた彼のことばを思い出す。家の裏の畑で政宗くんがふと零した、土いじりが好きな。
「『右目』さんも、居るのでしょう。政宗くんには」
 彼の見えない右目を見つめる。その眼帯に隠された表情も想いも私にはまだわからないけれど、それをわかってくれるひとが、ちゃんとあちら側に居るはずではないか。
「小十郎は、ゆきめとは違えよ」
「小十郎さんって云うの、きみの右目は」
「right. アイツはオレの腹心だ。背中を預けてもいいくらいに、信頼してる」
「それなのに、その右目はきみに『おかえり』も教えてくれなかったの」
「だから、違えんだって」
 政宗くんの大きな手が、彼の頬においた私の手に重なる。あたたかで、けれど柔らかさなんてかけらもない、男の子らしい骨張った手。
「なにが、違うの」
「なにがって、云われてもな」
 考えるそぶりさえ見せずに、それでも違うと政宗くんは云いきった。
 信頼を置く右目と、それとは違う私。
 それなら、信頼ではないなら、何だというのだろう。居場所、救い、ぬくもり、それとも絆や、友情といった曖昧な類か。
 考えられるものなら、いくつもある。でもきっと、そのどれも違うのだと思った。政宗くんが求めるたったひとつを見つけられたなら、彼はもうこんな表情をせずに済むのだろうか。
 こんな、世界の痛みをすべて抱えてしまったような。
「……なあ、ゆきめ」
「なに?」
「あったけえな」
 ゆるりと瞼を閉じて、俯く。私の手のひらに頬を擦り寄せる。黒髪が彼の顔に影を落とす。
「まだ、眠るには早いよ」
 ごはんもお風呂もまだだ。今日という日を終えてしまうにはいささか早すぎる。
「驚くほどゆっくり流れていくな、ここの時間は」
「けれど、いいものでしょう、スローライフも」
「Ah, it is so good」
 流暢な英語を紡いで、政宗くんは穏やかに笑った。
 都会や、彼の居た戦国とは違って、ここには目まぐるしい変化なんてない。季節はおだやかに過ぎ、この空間だけはいつだって変わらずに在りつづける。政宗くんが来てわずかに急くようになった時間も、慣れてしまえばそれが当たり前のようになる。
 政宗くんが居なくなったら、時を共有することがなくなれば、その「当たり前」に私は取り残されてしまいそうだ。淋しい、なんて思うのかもしれない。
 そんな想いは気づかれたりしないように、苦笑のなかにそっと隠した。




野うさぎの声

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