優しい、柔らかな手が額のあたりをぎこちなく撫でた。ひどく不安げな手つきだ。

「……べにこ」

聴き慣れた声に、そろそろと重たい瞼を上げる。一気に差し込んだ光が眩しい。こんなにぐっすりと眠ったのはいつ振りだろうか。

「べにこ?」

声の主は弁丸様だった。潤んだ双眸がこころもとなげにこちらを覗き込んでいる。
弁丸様、とその名前を呼ぶも、喉がからからに渇いていて、掠れて声にならなかった。
けれど、私の云いたいことは伝わったようで、弁丸様はもともと大きな瞳をさらに見開いて、弾かれたように立ち上がった。

「さっ、さすけ! べにこが目をさましたぞ!」

嬉しさと安堵が入り交じった大きな声が痛いくらいに頭に響いた。はいよ、なんて軽い返事をして長は突然に現れる。もう、帰ってきていたのか。

「久しぶり、紅子」

湯呑みに白湯を淹れながら、彼はやけに明るくそう云った。聞き苦しい声で挨拶するのもどうかと思い、代わりに怪我をした上半身を起こそうとすると、労るように背中を支えてくれる。怪我をした片腕には丁寧に包帯が巻かれていた。

「弁丸様、悪いけど、侍医を呼んできてもらえる?」
「おお、まっておれ!」

長からの頼みを顔をしかめることもなく受け入れて、弁丸様は早急に部屋から出ていく。
受け取った白湯をひと口流し込んで喉を潤してから、私は口を開いた。

「長が連れてくるべきでしょう」
「まあまあ」

眠りすぎから腫れぼったくなった目でじとりと長を睨むと、締まりのない顔で情けなく笑い返された。長らしくないような、変な表情だ。

「とりあえず、任務お疲れ様です。今日帰って来たんですか」
「ううん。俺様が帰ってきたのは昨日」
「昨日?」
「紅子、丸一日寝てたんだ」
「そう、でしたか」

眠る前の記憶は曖昧で、どうやってここに帰ってきたのかも覚えていなかった。ぐるりと思考を巡らす私の、その頭の中を見透かしたように長が云う。

「弁丸様が運んできてくれたんだって」
「え、弁丸様が?」
「才蔵が『弁丸様が血塗れの紅子を泣きながら引き摺り帰ってきたのには驚いた』って云ってた」
「……」

どうりで、なんだか足がひりひりするわけだ。しかし、弁丸様の小さな身体では私のことは運べないのも当然で、ここまで引き摺って帰って来るだけでも相当大変だっただろう。
あとでちゃんとお礼云わなきゃね、と少しからかうように笑った長に、私も、そうですねと苦笑を零す。

「……ありがとね、紅子」
「どうしたんですか、いきなり。らしくないです」
「素直じゃないよなあ、本当。弁丸様を助けてくれてありがとう、って」
「それが今回の、私の仕事でしょう」
「そうだけどさ」
「……なんなんですか?」

さっきからどうも、様子が可笑しい。本人が気付いているかは知らないが、少なくとも私の目にはそう映った。

「なにか云いたいことがあるなら、ちゃんと云って下さいよ」

あんまり不自然に思えたので、思いきって訊いてみる。長は気まずそうに一度だけ目を逸らすと、赤銅色の髪を無造作に掻いた。

「あー……じゃあ、聞いてほしいんだけど」

歯切れ悪く、長が切り出す。

「どうぞ」

それを短く促して、私はピンと背筋を伸ばした。長が私の目をまっ直ぐ見据えてきたからだ。

「……利き腕、怪我が完治しても、元のようには動かせないだろう、って」

例えるならば、頭の上に雷が落ちてきたようだった。同時に、ああ、やっぱり、と諦めにも似た感情がこみ上げる。

「なんとなく、そうかもしれないって、思ってました」

震える喉を叱咤して、できるだけ冷静にそう答えた。頭のどこかでは、判っていたのだ。自分の身体のことは、自分自身がよく把握している。ただ、認めたくなかっただけで。

「腱を、切断されちゃってるんだって」

長の瞳が、僅かに陰る。いつだって冷静で、嫌みなほど正しくて、決して揺るがない彼が、私ごときにその動揺を見破られているなんて。
長がそんなでは、私は、泣きたくなってしまうではないか。

「戦忍としてやっていくのは、難しい、と思う」

それでも、長は私に決定的なことばを下した。それは、幼い頃から戦忍として育てられた私の、人生が終わってしまったと云っても過言ではなかった。
なによりも、もうこの真田家のために充分な働きができないことが悲しくて、ひどく悔しい。

「それで、提案なんだけど……一旦、里に帰ったらどうかなって」

もっともな意見だ。そう頷きかけたとき、勢いよく部屋の襖が開かれた。

「ならぬぞ」

弁丸様だ。その後ろには彼が連れてきてくれたのであろう侍医も控えていた。弁丸様は私と目が合うと、つかつかと歩み寄ってくる。

「べにこをかいこするなど、おれがゆるさぬぞ、さすけ」
「そこまで云ってませんけどね」
「おなじようなことだ」

ぴしゃりと撥ね付けて、長と入れ違うようにして傍らに腰を落ち着ける。長が溜め息をつきながら、侍医を連れて部屋から出ていくのを視界の端で見送った。気を利かせてくれたのだ。

温かい小さな手で私の手をぎゅっと握る。その肩が微かに震えているのが判ってしまって、どうしようもなく苦しくなった。本当に私は、彼を泣かせてばかりだ。

「すまぬ、べにこ。おれのせいで、けがをさせてしまって」
「弁丸様のせいではありません。私が忍として、至らなかっただけのことです」

そして、人間としても。自分のこころない発言が、幼い彼を傷付けたのは変えようのない事実だ。弁丸様は赦して下さったけれど、あの時、あんなことを口にしなければと自分を呪わずにはいられない。

「やめるでないぞ、べにこ」
「しかし……今のままここに居ても、足手纏いになるのみですから」
「しのびがむりならば、下女でもかまわぬ。ここにいろ」

彼の、私の手を握る手に力がこもる。なにを仰いますか、とたしなめるも首を横に振るばかり。ぽたぽたと手の甲に弁丸様の透明な涙が落ちる。

「泣き虫ですね、弁丸様は」
「……っ」
「それでは安心して、里に帰れませんよ」

諭すように、その茶けた柔らかな髪を撫でた。俯いていた顔を上げるや否や、弁丸様の両腕が私の首に回された。そのまま、ぎゅうと抱きしめられる。

「それに、甘えたがりです」
「……うるさいっ」

顔は首もとに埋められていて表情は判らないけれど、精一杯の強がることばに嫌悪などは微塵も感じない。
しゃくり上げる背中をあやすようにさすれば、ようやく落ち着いてきたのか、涙で濡れた顔をゆるりと上げてくれた。

「おれのそばにいろ、べにこ」

ずず、と鼻をすすって、袖で無理やり目もとを拭うと弁丸様はそう云い放った。

「これはめいれいだ。そむくことはゆるさぬ」

意志のこもった瞳は、もうなにを云っても無駄であることを明白に語る。そこまで云われてしまえば、背く理由もなかった。私は、真田に仕える者なのだ。

「こころ得ました」

ただひと言葉、そう返した。

たかが一介の忍を、どうしてここまで想ってくれるのか。長がなぜ、彼にばかりは甘いのか。漠然とだけれど、判った気がした。
鬱陶しいと思いながらも、こころの奥底では、友達のように接してくれるのが嬉しかったのだ。これは、それに気付かぬふりをして、否定し続けた結果だ。虚勢を張ってもいいことなど、なにもないというのに。

「泣いておるのか、べにこ」

弁丸様の細い指が、目じりにつつと触れた。涙などもう、忘れているとばかり思っていたのだが、私とて所詮は人の血が通った人間だった。

「……私は真田に、弁丸様に仕えることができて、誠、果報者です」

そうであろう、と笑う弁丸様の、久しぶりに目にした笑顔は、ひどく無邪気で、友に向けるものと何ら変わりない。
片腕が使えぬくらい、なんだと云うのだ。私は生涯、彼に身を尽くして仕えよう。なんの躊躇いもなく、そう思った。




七、最期まで
  忠誠心を尽くす

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