新しい袴は皺ひとつなくぱりりとしていて、鮮やかな紅に目が焼けるよう。今までよりひと回り大きなそれに袖を通すと、弁丸様は嬉しそうに笑って見せた。

「どうだ、べにこ!」

こんなにも大きくなったのだぞ! とでもいうように、両腕をこれでもかと広げて主張する。

「よくお似合いですよ」

普段、めったに人を褒めるだなんてことをしない私は、そんなありきたりなことばしか返せない。それでも弁丸様は、そうだろう! と変わらず笑みを向けて下さった。

「なんだかつよくなった気がするぞ」
「ええ、今まで以上にご立派にございます」
「うむ! では、べにこ」
「はい、なんでしょう」

また団子だろうか、と次に飛び出すであろうことばに身構える。あれから何度か練習して、少しは上手くなったはず。そうこころの内で意気込んでみるも、しかし、彼の頼みは予期せぬものだった。

「やりのけいこにつき合え!」

すぐにはその意を汲みとれなかった私は、思わず訊き返してしまう。

「……はい?」
「やりのけいこにつき合えと申しておるのだ」
「私、槍は専門外にございますが……」
「かまわぬ。手合わせをしてほしいのだ!」

あいてになってくれぬか、と尋ねる弁丸様の目はもうすでにやる気にみなぎっていた。どうしたものか、と思案するけれど行きつく答えはひとつしかないも同然。

「……いいですよ」
「まことか! では外へ出よう」

嬉しそうに槍を抱えて縁側から庭へと降りていく。私もそれに続いて弁丸様から距離を置いて対峙した。

弁丸様は二本の槍を扱うことができるよう稽古を付けていると聞いたことがあるが、どうやら本当らしい。子ども用に長さを調整された赤い槍を両手に一本ずつ構えている。
こちらからの攻撃はあまりせずに、適当に受け流していればそのうち満足してやめるだろう。そう思い、とりあえずは苦無を構える。

「こい、べにこ!」

キッと睨んでくる眼光は子どもとは云えさすが武士の子。確かに、これは将来が楽しみだ。

「では、参ります」

苦無は投げたりせず、手にそのまま飛びかかるようにして距離を詰めた。槍は接近された途端に不利になる。

一歩、後ろに退くと弁丸様は強引に槍を振ってきた。力強い弧を描く刃は焔の尾を引く。キンッ、と高い金属音を鳴らして攻撃を受け止めれば、すかさずもう一方の槍が牙を剥いた。それを身体を跳躍させることで避ける。

「くっ、すばやいのだな」
「忍ですからね」
「さすけもそういっておった」

難なくかわされたことが悔しいのか、弁丸様はきりりと歯を食いしばった。負けず嫌いなのだろう、これは厄介だ。わざと負けるか。しかしそれでは弁丸様のためにはならない。どの程度の力加減が正しいのか、子どもの鍛練の相手などほとんどしたことがない私には憶測し難いことだった。

「むう、かくご!」

勢いよく凪ぐように両の槍が振られた。乱暴なそれは随分と隙があり、背丈も低いため横にかわして後ろに回り込むことは容易い。

「ぬおっ!」
「え、」

大きく振った槍の遠心力に持っていかれて、弁丸様の軽い身体が文字通りふっ飛んだ。ずさささ、という痛々しい音と土煙をたてて小さな身体は着陸する。血の気が引くのがわかった。

「べ、弁丸様!」
「ぬ、おおおっ、まだ、やれる、ぞ」
「無理しないで下さい」

立ち上がろうとする小さな身体に手を貸せば、大きな瞳がみるみるうちに水を張って潤んでいった。必死に涙をこらえているのだろう、握った拳が小刻みに震えている。それならばと私はなにも触れずに、汚れてしまった部分を手のひらでただ叩いて土や砂を落としていく。

「はかま、が、よごれてしまった、ぞ」
「大丈夫ですよ。綺麗になります」
「まこと、か」
「ええ。この紅子が綺麗にして差し上げます」
「う、む」

ずずっと鼻をすすって頷く弁丸様に安堵の息をついた。泣き顔を見るのはこれでもう三度目だ。長ならばきっと、彼を泣かすこともなく、それでいて上手くやるのだろう。どうにも私は、距離を計りかねる。

「湯浴みにしましょうか、弁丸様」
「まだ、はやいのではないか」
「お顔もお手も汚れておりますゆえ、そのほうがよいでしょう」
「……そうだな」

弁丸様が自分の土で汚れた手を広げてまじまじと見つめた。ところどころ擦りむいてしまっていて痛々しい。これは湯に染みるだろうな、とことばには出さずこころの内で思った。


檜の香りがやさしく漂う湯殿。弁丸様の世話役を頼まれなかったら入ることもなかっただろうそこは、ふわりと白い湯気を昇らせながら弁丸様と私を迎えた。
とは云え、私がこの湯船に浸かることなどおそらく一生ないだろう。さすがに忍装束で入るわけにはいかないので袴に着替えて袖や裾をたくし上げる。無論、弁丸様は湯着だ。

「足下、滑りやすいですから気をつけて下さいね」
「む、わかっておる」

毎度お決まりとなった科白にうんざりしているのか、弁丸様は不服そうにことばを返す。しかし、いつ転びはしないかとこちらは気が気ではないのだ。頭を打ったりしたらそれこそ命に関わるのだから。

適当にかけ湯をしてやってから、子ども特有の柔らかい髪を洗う。皮膚を傷つけてしまわぬよう指の腹でできるだけ丁寧に。これが一番、神経を使うところだ。初めて彼の湯浴みを世話した際、目に湯が入って痛いと散々に騒がれたため、ゆすぐときの配慮も欠かさない。
背中も流してあげて、顔や手の土汚れも落として全身を清める。擦りむいた傷に障るのか顔を歪める弁丸様は、しかし声を上げることはなかった。そんなところから、私は少しだけ彼の成長を垣間見るのだ。

「はい、湯船入っていいですよ」
「べにこ、そなたもよごれておろう。今日はともに入らぬか」

背ならおれがながしてやる、と得意げな提案に、まさか仮にも主にそんなことをさせられるかと私は慌ててかぶりを振った。

「私のことはお気になさらず」
「しかし、」
「ほら、早くあったまって下さい」

長い髪が湯につかぬように背に張りつく襟足を束ね上げてやってから、その背を押してやんわりと湯船へ促す。

「さすけもそうだが、なにゆえこばむのだ」
「私たちは忍にございますゆえ」
「りゆうにならぬ」
「いえ、充分に道理にかなっております」

ぶくぶくと鼻まで潜る弁丸様の眉間には皺が寄った。そしてついにはふて腐れたようにそっぽを向くのだ。まったく単純かと思えば変なところで扱いづらいお方である。

「……ところで、弁丸様はなぜ槍を二本お持ちになろうと思ったのですか」

このまま機嫌を損ねられると面倒だと、話題を変えて話しかけた。伏せられていた瞳がゆるりと上がってこちらを見遣る。乗ったか。

「つよいからにきまっておろう」
「そうですか?」
「一本より二本、二本より三本のほうがつよいにきまっておる」

しかし、やりは三本ももてぬからな。傷ついた両手を広げながらそう零す様は感慨深げだ。

「うでが三本、あればよかったのだが」
「それはもう人ではないですね」
「うむ。すえおそろしいな」

自分で想像して、からからと笑った弁丸様にさっきの不機嫌そうな面影はなく、心底ほっとした。たかが子どもの機嫌ひとつに振り回されすぎやしないかと自分を叱咤したことも数知れず。しかしどうにも、上手くいかないのだ。

「そろそろ上がりましょうか。逆上せます」
「うむ、そうだな」

ふわ、とあくびを漏らしながら湯船から出る弁丸様の小さな手をとる。

「転ばないで下さいね」
「……わかっておる」

温まって眠くなったのだろう、弁丸様は何度もその目を瞬かせる。脱衣場でその身体の水滴をすべて拭って新しい綺麗な袴を着せた頃には、もう半分眠っているような状態になっていた。

「もうすぐ夕餉ですが、お休みになられますか」
「いや、食べる、ぞ」
「ではしっかり眼を開けてお待ち下さいませ」

今寝かせてしまえば夜眠れなくなってしまうだろうと、夕餉で釣ってなんとか意識を繋ぎ止めた。部屋へ送ったらあとのことは女中に任せて、私は汚れてしまった袴を洗いにいこう。そう決めておぼつかない小さな足に細心の注意を払いながらその手を引いた。




四、頼まれごとは
  快く受ける

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