帰宅は昼過ぎとなった。駅から自宅まで数分歩いただけでも、汗がつつと流れる気温だ。リビングに上がってすぐにエアコンのスイッチを入れ、それからお土産を冷蔵庫へ、小さなスーツケースは自分の部屋へと持っていく。
 兄は何やら部屋に籠っているらしかった。トントン、と控えめにドアを叩けば、なんだ、と無愛想ないらえが返ってくる。
「ただいま」
 ドアを半分ほど開けて、帰ってきた旨を告げる。この暑いなか、兄はエアコンも扇風機もつけずに机に向かっていた。
「息災か」
「うん、元気だよ」
「ならば、いい」
 夏休みを利用した、たかだか数日の国内旅行であったわけだが、ぶっきらぼうの兄は存外、心配性であったりする。短いやりとりに彼の気遣いが見てとれて、わたしはうれしくなった。
「ねえ」
「まだなにかあるのか」
「お土産に美味しい和菓子を買ってきたから、いっしょに食べようよ」
「……いらん」
 くだらない、とばかりに一蹴される。兄は自分の食欲にほとんど関心がない。食欲どころか、睡眠欲や性欲といった人間の三大欲求と云われるものが、著しく欠けている。
「とっても有名なお店の和菓子だよ。せっかく並んで買ったのに」
「ならば名前が食えばいい」
「ひとりじゃ食べきれないよ」
「友とやらと食せばよいだろう」
 相変わらず、つれない兄である。こういうときは秘策がある。
「じゃあ、家康さんのところに持っていこうかな」
「なに……?」
「うん、せっかくだし、お裾分けしてくるよ」
「許さん。家康にやるくらいなら私が食べる」
 案の定、兄は椅子から腰を上げて、凄まじい形相でこちらへ向かってきた。彼は無欲なわけではない。自分の欲するもの以外への興味が極端に薄いだけなのだ。
「どこだ、その和菓子とやらは」
「冷蔵庫で冷やしてるよ。甘味詰めの箱でね、羊羮とか餡蜜とか、いろいろあるけど」
「なんでも構わん」
 キッチンへ向かい、冷蔵庫の扉を開けて、店のロゴマークが入った箱を取り出す。水羊羮が三種類、それから餡蜜、蜜豆、葛切り、大福。どれも美味しそうだ。
「……こんなに入っているのか」
「お父さんとお母さんも食べるでしょう。あともう一箱買ってきたから、それは豊臣さん家に持っていこうかなって」
「そうか。私が手渡しておこう」
「うん、そのつもりだった」
 箱のなかから水羊羹をふたつ取り出して、こし餡のほうを兄に渡した。わたしは抹茶味。
「暑いから、喉越しいいのが、食べたくなるよね」
「……そうだな」
 エアコンですっかり冷えたリビングに戻ると、ようやく落ち着いた気分になった。エアコンが苦手な兄のために温度を上げて、扇風機を回す。
「そういえば、なにしてたの? 勉強?」
 水羊羹を開けて、付属の竹べらで掬う。つやつやとしたそれをひとくち、舌に乗せれば仄かな甘みがふわりと広がった。つるりと喉を通っていくのも、やはり心地いい。
「そんなところだ。休暇中も研究がある」
「大変だねえ」
「好きでやっている。苦には思わん」
 水羊羹をすこしずつ口にしながら、兄はそれでもどこか疲れを見せていた。当たり前だろう。暑いなか、窓を開けただけの部屋でずうっと調べものをしていたのだから。
「すこしは休んだほうがいいよ」
「問題ない」
「だって目の下、隈できてる」
「……」
 ただでさえ食べない、眠らないのだ。このままでは夏バテするのではないかと、妹としてはひやひやしてしまう。
「これ食べたらさ、お昼寝しなよ。起こしてあげるから」
「名前こそ眠ったらどうだ。旅行帰りで疲れているだろう」
「じゃあ、いっしょに寝る? ひさしぶりに」
「莫迦か」
 呆れたふうに吐き捨てて、兄は食べ終えて空になった容器をごみ箱へ投げ入れた。心配しているのに、と、口に出そうとしたところで、それよりも早く兄がつづける。
「……すこし寝る。三十分後に起こせ」
「わかった、おやすみ」
 自室へと戻る兄を見送って、最後のひとくちを舌のうえへと運ぶ。やはり、疲れたときには甘いもの、だ。満足しつつ、同じように容器を捨てて、エアコンのスイッチを切った。
 わたしもちょっとだけ眠ろう。兄とわたし、心配する気持ちも、心配させたくない気持ちも、まったく変わらないのだ。




やさしく溶け出す
御題:名無子さま
甘味、夏、兄妹

2012.07.21
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