雨の降る、春分の頃。ふたりで一本の唐傘を差しながら、上田城の堀沿いを歩く。城のすぐ傍を流れる川がざわざわと、落ち着きなく騒いでいた。
「寒くはござらんか」
「いえ、だいじょうぶです」
 彼女は首を横に振って、小さく笑った。その手はいつだって、すこしだけひんやりと冷たいのだった。白く滑らかで、まるで上質な磁器のように。
「今宵は、これにござる」
 連なる桜の木の、その一本で足を止める。まだ咲き始めて間もない花が、雨に撃ち抜かれて僅かに散ってしまっていた。
「百八十一本め、ですね」
「うむ」
 俺は懐刀を取り出し、桜の幹に突き立てた。がつ、と鈍い音が閑静な空間に響く。
「待って、幸村さん」
「いかがいたした?」
「たまには、わたしにさせてください」
 薄い手のひらがこちらへ向けられる。俺は少々驚いた。百八十本そうしてきて、彼女がそんなことを云い出すのは初めてだったからだ。
「危のうござるぞ」
「お願いです。自分の手でもなにか、刻んでおきたいのです」
 そう云われてしまえば、断ることなどできなかった。懐刀を手渡す。するとすぐに、彼女は傘の下から抜け出して桜の木を隔てた反対側へと身を隠した。
「なっ、なにをしておられるのだ名前殿! 堀へ落ちてしまいまするぞ!」
「百八十一本めは、こっち側、です!」
 空いたほうの片腕を幹に回して身体を支えながら、懐刀で傷をつけているらしい。がりがり、と木皮を削る音が微かに聴こえる。
 いくら木の下とは云え、濡れてしまうからと近づこうとすれば、来てはだめだといなされてしまった。俺はそのまま待っていることしかできない。自分がするよりもだいぶ時間のかかっているそれに、そわそわと落ち着かなくなってくる。
「その、やはりそれがしが、」
「だいじょうぶ、もうすぐ終わります」
「さ、左様で……」
 存外真剣な声に、黙ってもう暫し待つことにする。ふと息をつき、空を仰いだ。雲は厚い。春の天候は不安定だ。

 百八十一日前、秋分。
 今宵の春分と同じく、ひととせのうちで昼と夜の長さが等しくなる頃、彼女は突然に現れた。暮れなずむ縁側で出逢った不安げな瞳を、半年経ったいまも鮮明に記憶している。
 自分の名以外なにも覚えていないのだと、小さな声で彼女は云った。
 その日から毎日一本ずつ、こうして夜が来る前に上田城内の桜の木に傷を刻み付けることにしたのだった。それは、彼女がここへ来てからの日数を記すとともに、俺からのささやかな贈りものでもあった。
 一日一本、上田の桜は彼女のものとなっていく。
 見ず知らずの土地で、見ず知らずの者たちと、いままでとは違う暮らしを強いられる彼女へ、僅かでもいい、毎日の花となるように。
 そんな想いが、すこしずつ特別なものへと変わっていったのは、いったいいつの頃からだっただろう。まるでそれが自然なことであるように、俺と彼女は互いに惹かれ合っていった。

 からん。甲高く響いた音にはっとする。桜の幹からひょっこりと、彼女は顔だけを出していた。
「名前殿? どうされたのだ」
「もうだめみたいです」
「だめ、とは……」
「ごめんなさい、小刀、落としちゃって」
 眉を下げて笑う彼女は、俺の目にひどく弱々しく映った。
「そんなものは、よいのだ。それよりもこちらへ、」
 手を差し伸べる。彼女は曖昧な表情で俺を見上げると、そろりと片手をその上へ重ねた、らしかった。と云うのも、その手はほとんど実体がなく、半透明に透きとおっていたのだ。
「なにも、案じることなどござらぬ」
 驚いたものの、努めて落ち着いた声を出す。それから、不安そうに震える彼女の華奢な肩を引き寄せ、抱きしめた。
「しかと、触れることができるではないか」
「ごめんなさい、幸村さん……ごめんなさい、」
「なにを謝ることがあるのだ」
「こうなること、わかっていたんです。記憶がないだなんて、嘘だったんです」
 ごめんなさい、ごめんなさい。彼女は何度も繰り返し謝った。泣いているのか、声は不規則に揺らぐ。ざあざあと響く雨の音よりも鮮明に耳に届くのに、その存在自体は徐々に不明瞭なものになっていった。
「謝らないでくだされ。そうしなければならない理由が、あったのでこざろう」
 濡れた髪を撫でると、彼女はぽつりぽつりと小雨のように話し始めた。
「わたしは、五百年後の未来から、来たんです」
 けれど、信じてもらえる自信がなかった。わたしはなにひとつそれを証明するすべを持たなかったし、どう説明すればいいのか自分でもわからなかったから。
 だから、咄嗟に記憶がないことにしたのだと、彼女は云った。
「さぞ、辛かったであろう」
「幸村さん、」
「なれど、名前殿に帰る場所があったとわかり、それがしは安心致した」
「……幸村さんは、やさしすぎます」
「そうでもござらぬぞ」
 彼女の、いまにも消えてしまいそうな背へ回した腕に、力をこめる。
「いまだって、名前殿を離したくはないのだ」
「それなら、ずっと、こうしていてください。わたしが、消えるまで、抱きしめていてください」
「わかり申した。名前殿が望むなら、それがしはこの腕をほどかぬ」
 微かに感じる体温が、とても心地好いと思う。いまこの時が永遠であればいいのにと、願わずにはいられなかった。もうすぐ、同じ長さの夜が来る。
「わたしのこと、忘れないでください」
「名前殿も、記憶を大切にしてくだされ」

 上田の千本桜のうちの、とある一本。その裏に刻まれたふたつの名前が、この日のふたりを惹き合わせるのは、これからずっと先の未来。すれ違う時が、ようやく等しくなった頃。
 頭上では、零れ落ちそうな桜の蕾から、ぽたぽたと泣いたように雨の雫が滴り落ちていた。



時計仕掛けの季節
御題:らかさま
桜、雨、嘘

2012.06.14
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