その振袖は、淡い桜の花が鏤められた、それは上品で美しいものだった。処々に煌めく刺繍が丁寧に、大切に仕立てられたことを物語っている。
 武田さんは、そんな高価そうな着物を、名前に譲ってくださるのだと云う。
「親戚から譲り受けたのじゃが、如何せん我が家は男所帯でのう。おぬしなら身の丈も丁度良いかと思うて」
 細められた目は、まるで孫娘に向けるようにやさしい。
 しかしながら、武田さんとは所謂ご近所さん同士。普段から名前は元より、両親共々よくしていただいているのだ。見合ったものを返せない身としては、申し訳なさが先立って、素直に受け取ることはできない。
「渋っておるのう」
「それは、だって、こんなに綺麗なお着物、私には勿体ないです」
「なにを云うておる。着物は身に付けられてこそ、真の美しさを魅せるものよ。おぬしならよくよく似合うと見える」
 それとも、ワシの目が狂うておると申すか? なんて云われてしまえば、名前は口を噤むしかなかった。

 武田さんは、屋敷で働くお手伝いさんを呼ぶと、名前に着物を着付けるように云った。当然、拒否権などはあるはずもなく、あれよあれよと袖を通され、衿を併せ、帯を締められてしまった。
「ただいま帰りましてこざいます!」
 威勢のいい声とともに襖が開かれたのは、たどたどしいばかりの着物姿を武田さんにお披露目しているさなかだった。回ってみろ、なんて促されて、くるりと背を返したところ、まっ直ぐに視線がかち合ってしまう。
「あ、幸村くん」
 彼は同じ高校に通う同級生である。襖に手をかけたまま、固まって動かない。この姿に相俟って、幸村くんがまだ部活をしているうちに上がり込んだりすることもいつもならないため、驚いたのだろう。
「……お、おかえり」
 非常に気まずい雰囲気に、名前はその場しのぎの声をかける。
「う、うむ。して、これはいったい……」
 未だ動揺しているのかその口調は覚束ない。そんな幸村くんの様子に、武田さんがはっはと盛大に笑った。
「幸村よ、見目麗しき桜の君に見蕩れおったか」
「なっ……! おっ、お館様っ!」
「よいよい。あとは若いふたりで茶でも飲め」
 至極機嫌よく口ずさむと、幸村くんを座敷に引き込んで、自分は出て行ってしまう。ぴたりと閉じられてしまった襖に、さらに気まずさが増幅した。

 幸村くんは口を開かない。もっと云えば、お互いとりあえずその場に座したものの、彼は顔も上げてくれないのだった。いよいよ居たたまれなくなって、名前はそっと腰を上げる。
「なんか、ごめんね、私帰るよ」
 着物脱がせてもらわなきゃ、とかろうじて笑ってみせると、幸村くんがようやく顔を上げた。
「お待ちくだされ!」
 中途半端な体勢のまま、手を掴まれ、立ち上がることを阻止される。見上げてくる幸村くんの顔はどういうわけかまっ赤だった。
 それから、打って変わって消え入りそうな声で、
「か、可愛らしゅうござる、」
 なんて云うのだ。
「その可憐な立ち振舞いに、それがしは目を奪われ申した」
「ゆ、幸村くん……」
「まさに桜の君と呼ぶに相応しい儚さ、麗しさでござる。ゆえに、ことばを失ったのだ」
 名前は頬と云わず顔と云わず、全身に熱がこもるのを感じた。正直者の彼は、普通なら口にするのも億劫なほどの誉め言葉さえ等身大で、もうなにを云い返すこともできなくなる。
「名前殿……?」
 ひと言も発しない名前を不審に思ったのか、幸村くんは覗き込むように見上げてくる。名前はふるふると首を横に振って、その場にへたり込んだ。
「は、恥ずかしいよ……」
 顔を袖口で隠してそう伝えるのが限界だ。
「な、なんと、照れておられるのか?」
「なにも云わないでっ」
「しかし……その、かような仕草も、可愛らしく、胸をくすぐられるような思いが致すのだが、」
 幸村くんとしては感じたものそのままを口にしているつもりなのだろうけれど、名前にしてみればたまったものではない。酷い誉め殺しだ。
「もう、いいから」
 しーっ、とするように、幸村くんの唇に人差し指を宛がう。ぴたりと彼は律儀にも呼吸まで止めた。
「どれが本心か、わからなくなっちゃうよ」
「……どれもなにも、すべて本心にござるぞ、」
「だから、そういうのが、」
 恥ずかしいんだって。そう紡ごうとした矢先、人差し指を立てていた手をとられ、握られる。
「屋根の下での花見もまた、ようござるな」
 ことばどおり、花を愛でるかのようなやさしい瞳だった。生粋の天然であるらしい彼には、まったく敵わないな、と名前は思った。

 襖の向こう側では、小さな溜め息が零された。帰宅するなり武田さんに茶と菓子をもって行ってやれと云われ、盆を手に立ち往生する佐助くんのものだ。
「お館様、俺様、すっごい入りづらいんですけど……」
「精進せい、佐助!」
 この状況を心底楽しんでいる武田さんにはなにを云っても通用しない。佐助くんは今度こそ深い深い溜め息をついた。
「……旦那にも春が来たかねえ」
 喜ばしいことではないか、と自らを納得させ、どうしたものかと思案する。もちろん、そんな彼の気苦労なんて、ふたりは知るはずもないのだけれど。




春を振るう袖
御題:ユリさま
春、着物、桜

2012.06.03
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