ばいばい、先生。子ども特有の高く明るい声が響く。『先生』は柔らかい笑顔で、小さな彼女と、その母親を見送った。母親は申し訳なさそうに頭を下げると、傘を差して娘の手を取り、園を出る。
 もうすっかり日の暮れた、暗い雪道。まるで昔の自分を見ているようだと思った。

 雪が降ると思い起こされる。あの頃、私はまだ幼く、いまよりもずっと無垢で、無知だった。
 その日は、積み木でお城を建てて遊んでいた。ほかの子たちは何時間も前に迎えが来て、すでに帰ってしまっている。ストーブの焚かれた教室には、いつものように、もう先生と私しかいない。
「きょうも名前殿のお母上はお仕事にござるか?」
 まるで時代劇に出てくるお侍さんのような話し方をするその先生が、私の組の担任教諭だった。いつだって明るく元気で、とても力持ちなゆきむら先生。
「うん、ママは、忙しいんだって」
「左様でござるか。がんばっていらっしゃるのだな」
 いいお母上だ、と笑って、先生は積み木をひとつ乗せる。私はそれがうれしくて、大きくうなずく。
 仕事ばかりでろくに娘にかまわない母親を、周りのひとは良しとしない。可哀想にね、なんて憐れまれることもしばしばあった。私には何よりも、それがいちばん悲しかったのだ。
「名前殿も、偉いと思いまするぞ。ひとを待つというのは、こころもとなきものだ。その者を信じていなければ、できぬことにござる」
 先生の云うことは、時に難しい。それでも、彼なりに励まし、誉めてくれているということだけは、子どもながらにわかっていた。
 ゆきむら先生は決してお母さんを否定しなかったし、私のことも憐れんだりしなかった。
 寂しくない、なんて云ったらそれは嘘だ。けれど、それでもいまは、
「先生がいるから、だいじょうぶ」
 この時間が、いつしか私の楽しみにもなっていた。先生と遊ぶこと、お母さんを待つこと。それらのどこにも苦しいことなんてない。
「なんと、それはうれしゅうござるな」
「ほんとに?」
「誠にござる。それがしも、名前殿と遊ぶのが楽しいのだ」
 先生は私を抱き上げると、胡座をかいた膝の上に乗せてくれた。後ろから伸びる手が、私に積み木を渡す。
「城の頂は、名前殿の手で」
 先生の手のなかにあると小さく見えた三角形も、私には片手で掴むのが精一杯だった。それを慎重に頂上へ乗せれば、いっしょに作っていた積み木のお城は完成となる。
「できた!」
「おおっ、やりましたな!」
 わしわし、とその大きな手のひらが頭を撫でてくれる。先生のあたたかな体温はとても心地好い。
「わたし、おとなになったらこういうお城で先生と暮らしたいな」
「それがしがご一緒でよろしいのでござるか?」
「うん。先生とけっこんしたら、わたしも子どももきっと寂しくならないもの」
「けけけけ、けっこん!?」
 びくり、と大袈裟に驚く先生から振動が伝わる。
「はっ、はれんちであるぞ!」
「はれんち?」
「と、ともかく、名前殿にそのような話はまだ早うござる!」
 ひと際大きな声に、耳がきんきんとした。不服を云おうとして振り向くと、まるで林檎のように頬をまっ赤にした先生が、慌てて目を逸らす。その頬に触ると、熱さが手のひらに伝わってきた。
「先生、溶けちゃいそうだね」
 私が笑うと、先生は大きな目をぱちくりと丸くして、それからぱっと思い付いたように口を開いた。
「ゆきむらの『ゆき』は降る『雪』ではござらぬ。『幸せ』と書いて『ゆき』でござるぞ」
「しあわせ、」
「うむ。ゆえに、溶けはせぬ」
「よかったあ」
「それがしは、幸せ者にござるな」
「どうして?」
「かように名前殿に想ってもらえるのは、しあわせにござる」
 いま思い出しても、やさしいひとだった。子どものことばだってあしらったりせず、しっかり、本気で向き合ってくれていた。
 まだ若い、新任の先生。初恋のひと。

 寒さにひとつ、くしゃみを零した。ひらひらと舞う雪が、髪を濡らしていく。
 雪、ゆき、幸。幸村先生。そんな風に連想して、帰宅途中、なんとなく回り道をした。当時の幼稚園は、いまもそこにある。
「名前殿?」
 私に気づいたのか、懐かしい声が呼んだ。幸村先生は相変わらず伸ばした髪をひとつに結っていて、すこし雰囲気が落ち着いたように見える以外は、なにも変わらない。
「やはり、名前殿でござろう。お久しゅうござるな」
「はい、十年ぶりです」
 よくわかりましたね、とつづければ、先生はうれしそうにうなずいてくれた。
「初めてもった担任の組で、いつも預かり保育になるのは名前殿くらいでござった。忘れるはずがござらん」
 それには、苦笑するしかない。
「しかし、十年でござるか。名前殿はもう高校生になるのだな」
「そうですよ」
「なれば、結婚もできる齢だ」
 悪戯っぽく、先生は目を細める。私はかっと顔に熱が昇るのを感じた。
「……そんなことまで、憶えてるんですか」
「名前殿こそ」
 先生の手がこちらへ伸びる。反射的に肩を竦めるも、彼が触れたのはこの首に巻いたマフラーだった。それを、くいと私の口もとまで引き上げる。
「おなごが冷やしてはなりませぬぞ。スカートもいささか短うござる」
 目線を上げれば、先生はどきりとするようなやさしい表情でこちらを見ていた。なんだか、自分がまだひどく子どもに思えて、すこし悔しい。
「溶けてしまいそうでござるな」
 あたたかくて意地の悪い指先が、私のまっ赤な頬をそっと撫でた。




いつかの帰り道
御題:中島さま
雪、幼稚園、先生

2012.05.27
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