満開の桜並木に囲まれた、大きな川の上。小さなボートへと乗り込んだ元親が、わたしに手を差し伸べた。
「揺れるから、気をつけろよ」
「うん、ありがとう」
 やさしいことばにうなずいて、足もとに十分注意しながらその手を取る。温かい手はわたしを慎重に小舟へと上げてくれた。
 ふたり用のボートは、体格のいい元親が乗るとなおさら狭く感じた。

 春。まだすこし肌寒い季節。花見がてらに小舟釣りでもするか、という元親の何気ないひと言で、いまわたしたちは此所に居る。
 川の流れはゆるやかだった。風のそよぐたびに川縁を彩る桜が枝を揺らし花を散らした。鏡のように澄んだ水面を淡い花片が滑る様はとても綺麗だ。
 同じように流れに任せてゆっくりと進む小舟の上で、穏やかな風景に目もこころも奪われる。時間さえも緩慢になったみたいで、ひどく心地が好かった。
 元親は持参した釣竿をなに食わぬ表情で握っている。釣り針はゆらゆらと、獲物を待ちながら浮いたり沈んだりしていた。
「でも、元親が川釣りなんて珍しいねえ」
 荒波を好む彼は、時には自家用ボートで海へ出る。大物が釣れたときなどは、うれしそうに報告をくれたりもするのだ。
「たまには、波のねえ静かな水場もいいと思ってよ」
「なるほど。たしかに、いつも荒くれ者の相手ばかりしていたら、疲れちゃうもんね」
「……疲れてんのか?」
「ううん。楽しいよ、とても」
 心配そうに訊ねてくる元親が、とても愛しいと思う。自分でも頬が緩んでしまうのがわかった。
「わ、笑うんじゃねえよ」
「ごめん、なんか可笑しくて」
 目もとを赤く染める元親に、ますます笑いが抑えられなくなる。元親が拗ねたようにそっぽを向いた時だった。彼のもつ釣竿が意図をもってぐんとしなった。
「かかったか!」
 嬉々とした声が上がる。竿を引きながらリールを回す手つきは鮮やかだった。しばらくの攻防の末、ついに獲物が宙へ釣り上げられる。水飛沫とともに白銀色の腹がきらりと光った。
「お見事」
「こんなもんは朝飯前よ」
 三十センチはある魚の体には、映える三本の赤い線が走っていた。元親は器用に釣り針をとると、釣ったばかりのそれをふたたび川へと投げ入れた。
「逃がしちゃうの?」
「ウグイは猫も食わねえって云うしな」
「不味いんだ」
「いや、うまく調理してやればぜんぜん食えるぜ。ただ、冬が旬だ」
 それに、いまは婚姻期だしな、なんて目を細める。わたしはきっと、彼のそんなところが好きなのだ。
 それから元親は、婚姻期のウグイは赤い条線が出るからアカウオだとかサクラウグイとも呼ぶのだ、なんてことまで教えてくれた。

 結局、元親はその後二・三匹釣ったものの、やはりすべて川へ返したのだった。
「あんまり釣れなかったねえ」
 小舟から手をだして、指先を水面に滑らせる。
「この時期の川釣りなんてこんなもんだ」
「そうなの?」
 小さな花びらがぴたりと爪に貼り付いた。わたしは手をさらに水底へと沈めながら、首を傾げる。
「なら、どうして釣りなんて」
「云っただろ、花見がてら、だ」
「花見……」
「名前も楽しめると思ってよ。ほら、手貸せ」
「あっ」
 水から上げた冷たい手を、ハンドタオルでぎゅっと包まれる。そのことに気を取られたわたしは、すぐ先に小さな段差があることなど気づくはずもなく、突然のボートの揺れに備えることができなかった。
「わっ、」
「うおっ、危ねえ」
 もともと体制を前へ乗り出していたため、不安定な身体はいとも簡単に傾く。しかし、元親はとっさにこの手を引いて、わたしをしっかりと抱きとめてくれた。
「わあ、びっくりした」
「すまねえ、だいじょうぶか?」
「平気、平気。ありがとう」
 二重の意味でどきどきと早まる鼓動を抑えつけながら答える。すると、元親はあろうことかさらにぎゅうっとわたしをその逞しい腕で締めつけた。
「なっ、なに、」
「ん、静かな川もなかなか小粋な真似しやがると思ってよ」
「……莫迦」
 けけ、と笑う元親は至極楽しそうだ。その揺れる銀色の髪に、ひときわ色濃い花弁が乗っていた。手を伸ばして、薄皮のようなそれを摘まみとる。
「あ? なんだ?」
「ううん。元親も婚姻期かなと思って」
 指先のそれを見せると、元親は納得したのか、ああ、と微かに苦笑した。
「するか? 結婚」
「うん、する」
「……いいのか、本気にしちまうぜ」
「いいよ、」
 ぽかぽかと高くなる体温を感じて、わたしは顔を元親の胸に埋めた。元親もわたしも、自分で云ったくせに恥ずかしくなって、赤くなるのだ。




色づき花の川
御題:ヨシノさま
春、甘め、恋人

2012.05.11
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