自らを「真田に仕える忍」と名乗る彼が、ひとり暮らしであるわたしの部屋に落ちてきてから早二ヶ月。最初のうちは警戒心を剥き出しにしていた彼も、最近ではすこしずつ慣れてきたようで、奇妙な同居生活はわりと順調につづいているのだった。

 当の彼は、いまはふたり掛けのソファでゆるりとくつろいでくれている。わたしはと云えば、キッチンでおやつのロールケーキを切り分けていた。
「猿飛さん、きょうのおやつはロールケーキですよ」
「へえ、甘そう」
「うわっ!」
 すぐ耳元で返ってきた声に思わず包丁を落としそうになる。危ないなあ、なんて笑う猿飛さんは、ついさっきまでリビングのソファに座っていたはずなのだ。
「い、いつの間に……」
「あはー、驚かせちゃった?」
「……心臓に悪いです」
 跳ね上がった心拍数をどうにか落ち着けながら、ロールケーキの乗ったお皿をフォークを添えて差し出す。
「どうぞ、猿飛さん」
「佐助」
「へ?」
「その『猿飛さん』って、やめない?」
 さりげなぐわたしの分のお皿まで奪われる。猿飛さんはソファへ腰を落ち着けるとわたしに手招きして云った。
「とりあえずほら、こっち座って」
「あっ、ちょ、ちょっと!」
 いつもならテーブルを挟んで向かい側に腰掛けるところを、ぐい、と手を引っ張られ、猿飛さんの隣に座らせられる。ふたりの距離はないに等しい。
「いっ、いったいどうしたんですか、猿飛さん」
「それと、その敬語も。俺様は忍だからさ、敬称つけられるのも敬語で話されるのも、慣れてないんだよね。それにどうせなら、名前で呼んでほしいなあ、なんて」
「ええっ、い、いまさらじゃないですか。わたしはもうこれで慣れてしまいました」
「へえ、そう。名前ちゃんは俺様にずっと違和感のなかで生活させることを強いるわけね」
「えっ、いや、そういうつもりでは……」
「あーあー、俺様、気が変になりそうだなあ」
 わざとらしく頭を抱えて溜め息をつく猿飛さんに、わたしはなぜか身に覚えのない罪悪感に苛まれる。
「その、猿飛さん……」
「佐助」
「うっ……」
「ほら、云ってみて。さすけ」
「……じゃあ、えと、さ、佐助、さん」
「だーめ」
 まるで小さな子を諭すときのような甘い声。そんな声で囁かれたら、誰だってくらりと傾いてしまうだろう。そんなのはずるい。反則だ。
「だっ、だって、猿飛さん明らかに年上ですし……!」
 雰囲気に気圧されぬよう、わたしは慌てて弁解する。年上の男性に敬語も敬称もなしで話すなんて、どう考えても失礼だ。
「いいの、齢は関係ないから」
「こっこの時代では関係あるんです!」
「嘘だね。みんな平等、なんだろ?」
 顔の横に手をつかれ、ぐっと距離を詰められる。鼻先がくっついてしまうのではないかというそれに、わたしの頭は混乱するばかりだ。
「ななななっ、なにしてるんですか……!」
「ん? 名前ちゃんとの距離を縮めようと思って」
「ひゃっ、離れてくださいっ」
 頬をゆるりと撫でられて、なにやら背筋に云い様のない感覚が駆け上がる。対して余裕綽々な猿飛さんは、面白がって耳に息を吹き込んでくる始末だ。
「あっ、あうっ、やめてくださ、」
「あはー、かーわい」
「わっ、わかりました! わかりましたからっ!」
「じゃあ、その敬語をまずはやめてもらおっかな」
 仰け反りすぎてほとんど身体がソファに沈み込んでいたわたしを引っ張り起こしながら、猿飛さんが楽しそうに笑う。
「とにかくさ、俺様、もっと名前ちゃんと仲良くなりたいんだよね」
「へ……」
 思わぬ科白に、思考回路が停止した。
 だって、あの猿飛さんが。これ以上近づいたら殺す、なんて云ってた猿飛さんが。わたしの手料理もコンビニ弁当も外食も、毒味してみせないと手をつけなかった猿飛さんが。
「な、仲良く……?」
「そう。いつまでも他人行儀のままじゃ、名前ちゃんだって疲れちゃうでしょ」
 こっちは世話になってる身だし、なんて云いながら、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。緊張していた身体がゆるゆると絆されていくようだ。
「あの、」
「ん?」
「もしも、ほんとうにそう思ってくれたなら、わたし、すごくうれしい、ですよ」
「そう?」
「はい。いきなりはその、難しいと思いますけど、徐々に慣れていこうとは、思うので、」
 まっ直ぐな視線を投げて寄越す猿飛さんに、わたしは自分で云いながらも、なんだか恥ずかしくなってくる。まるで告白でもしているみたいだ。
 それに、猿飛さんが、あんまりうれしそうな顔をしてくれるので、どうしたらいいかわからなくなる。
「けっ、ケーキ食べよう、佐助、くん」
「うーん、まあ、赦してあげる。はい、あーん」
「ええっ」
「ほら、ご褒美」
「い、いただきます……」
 やはり、彼はずっとずっと大人で、わたしなんかでは敵わない。ひとくち食べたロールケーキは、びっくりするほど甘かった。




時の壁を壊したら
御題:棗さま
逆トリ、名前、距離

2012.05.08
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