雪が解けてからこの年始めての戦を終え、幸村様率いる武田軍はふた月ぶりに無事ご帰還なされた。当然、城内は歓喜で満ち、あすの夜には宴が催されることとなった。ただし今夜はみな、疲弊した身体をゆるりと休めるように、というのは他でもない幸村様のおことばだ。

 しかし夜、幸村様の褥の準備に参ると、彼は縁側でひとり花見酒に興じていた。部屋にはめずらしく香が焚かれている。
「幸村様、お疲れのところ、夜風にあたってはお身体に触ります」
 一介の女中が差し出がましいかとも思われたけれど、自分の立場よりなにより、幸村様のお身体のほうが大切だ。けれども、私の苦言に幸村様はくつと笑うのみだった。
「心配するな、斯様に柔ではない。それよりも、酒の相手をしてはくれぬか、名前」
 肩ごしに振り返って、私を呼ぶ。その雰囲気は平時とは僅かに異なっていて、しかし、どこがと問われても明確な答は出せないのだった。
「……承知しました」
 渋々と了解する。主様に逆らうことはできない。幸村様の左隣に、僅かに距離をとって座った。
「すこしだけ、にございますよ」
「堅いことを云うな。おぬしも佐助に似てきたのではないか?」
「私たち女中はみな、佐助様からくれぐれも幸村様が無理をせぬよう、仰せつかっておりますので」
「あやつ、抜かりがないな」
 顔をしかめる様は、まだ微かに少年の幼さを残している。それは、したたかでもあり、また同時に脆くもあった。佐助様が過保護になってしまうのもうなずける。

 差し出された杯に、私は徳利を持って傾けた。透明で濁りのない液体が、月灯かりを受けて煌めく。
 それを、幸村様はゆっくりと口もとへ運んだ。瞳はまっ直ぐ、庭先へと向けられている。その視線を追ってみれば、なるほど、此処から望める夜桜はひどく美しかった。
 また、室内から漂ってくる甘いような香りが、なんとも云えぬ風情を醸し出している。
「幸村様が香を焚くなど、めずらしゅうございますね」
「む?」
「あ、いえ……香を嗜むとは、存じなかったものですから」
 ついぞ思ったことをそのまま口に出してしまったが、よくよく考えてみれば少々失礼であったかも知れない。しかしながら、花より団子な幸村様は、花の香りよりも汗のにおいが似合うようなお人だ。
「名前は、この香りを好むものと思っていたのだが」
 私がおろおろと戸惑っていると、幸村様はその口の端にゆるやかな弧を描いた。どうやら、気分を害してしまったわけではないらしく、ほっとする。
 また、云われてみれば嗅ぎ覚えのある仄かな香りは、たしかに自分が小袖に焚き染めるものとよく似ていた。私が使う香などはたかが知れているが、これはおそらく、高価なものなのだろう。
「とても雅な香りに思います」
「そうか。ならば、よかった」
 そう云って、幸村様は酒をひとくち嚥下する。
「……不快にさせては、もとも子もないからな」
「幸村様?」
「いや、大したことではないのだが……久々の戦となると、自分でもいささか気になってしまうのだ」
 極まり悪そうに、幸村様が首の後ろを掻いた。ああ、と私は俄かに納得する。
 おそらく、死臭や血のにおいのことを云っているのだろう。戦場を離れてもなお、それは感覚的なものとなって幸村様につき纏っているに違いない。
 そして、それを幸村様は隠そうとしていたのだ。毎夜、褥の準備に来るたかが一端の女中のために。
「そのように気になさらずとも、幸村様の陽だまりのような香りが、私たちを安心させてくださいますのに」
 空いた杯に酒をつぐ。幸村様はすかさず、それを一気に仰いだ。
「いや、安心を貰っているのは、俺のほうだ」
 そうして、ふたたび空となった杯を傍らに落ち着けると、至極自然な動作で私の肩口に額を埋めたのだった。
「ゆ、幸村様、」
「すまぬ、名前。今暫し、このままで居させてくれ」
 幸村様の髪が首筋をくすぐる。
「はい。おかえりなさいませ、幸村様」
 私はそっと、その広い背に腕を回す。さらさらと花を散らす桜の音を聴きながら、深い夜の中心でふたり、同じ香りに包まれていた。




宵待ち花見酒
御題:よしたかさま
春、夜、香り

2012.05.05
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