毎年、冬の間だけ奉公に上がる女が居る。名は知らぬ。大方、配下の駒の娘か孫なのであろうが、とにかく、春になるとそれまでの誠実さが嘘であるかのようにはたりと姿を消すのであった。
 雪解けが近づいている。
 日輪を反射し輝く美しい白も、もうじき見納めである。その地の下には未だ感じられずとも、あたたかな春の気配がたしかに潜んでいるのだろう。

「元就さま」
 淡雪を思わせる柔らかな声で女は我の諱を呼ぶ。
「お茶が入りました」
「頼んだ覚えはない」
「ほどなく喉がお渇きになる頃合いかと存じまして」
 そう目を細める女の手から、湯呑みを受けとった。それだけのことに、女はいつもうれしそうに笑みを深める。
 茶をひとくち啜る。程好い熱が喉を通っていく。
 女は部屋から退くでもなく、しかしことばを発するでもなく、ただ静かにそこに在るのだった。時折、窺うようにこちらに視線を送るほか、なにもしない。
「すこし外へ出る」
「はい。お供いたします」
 空になった湯呑みを盆に戻し、立ち上がった。その斜め一歩後ろを女は控えめについてくる。なにも気を遣う必要はない。

 澄み渡った空の下、黒く濡れた土の道を歩く。雪は固く凍りつき、木々の根もとに僅かに残るのみとなっていた。遠くからせせらぎの音が聴こえている。雪解けの音かも知れなかった。
「じきに、春が来ますね」
 つとめて明るく、女は云った。肩越しにその目を見遣れば、奥深くには微かな憂いが見てとれる。
「貴様はまた冬まで現れぬのか」
 大して興味があるわけではなかったが、ほかに訊くこともないので訊ねれば、女は少々意外そうに眉を上げた。
「気づいておられたのですか」
「何年も繰り返しおれば嫌でも覚えよう」
「左様で……うれしゅうございます」
 今度はこちらが片眉を上げる番であった。なにが嬉しいというのか、生憎ながら我には小指の先程もわからない。すると、女はやはり笑って云うのであった。
「すこしでも元就さまに、わたくしという存在を認めてもらえたことが、うれしいのでございます」
 それから気恥ずかしげに視線が伏せられる。我にその胸のうちを理解することは不可能であった。なぜならば、我は、我自身が我の存在を認めていればそれでよいからだ。
 他人に認めてもらうことで喜びを感じること自体が、まず、我とこの女との違いであった。
「解せぬな」
「構いませぬ。わたくしのみが、そのしあわせを知っております」
 ことば通り、女はしあわせそうに目もとをほころばせる。
「なにひとつ思い残すこともありませぬ」
 小さな歩みが止まった。
「なんぞ、」
 つられて、我も立ち止まり振り返る。
「もう、来年の冬からは元就さまにお仕えすることも叶わぬのです。冬さえも、そのお顔を拝見することがなくなるのです」
「なにゆえ」
「ようやく、嫁ぎ先が決まりましたゆえ」
 科白とは裏腹に、女は泣いていた。白い頬を透明な雫が伝い落ちる。次から次へと、それは止まることを知らぬかのようだった。
「いままでは生業が定まらず、こうして戦のない冬は身内の伝で元就さまのもとへ、春は掻き入れ時のとある甘味屋で、夏から秋は親類の農業を手伝っておりました」
 それが、今年の春からは在るべき場所が定まったのだと、震える声が懸命に紡ぐ。
「わたくしは、このままで充分しあわせでありましたのに」
 とうとう女は俯いた。溜め息をつく。気づけばこの手は、女の薄い手のひらを取っていた。
「……ゆくぞ」
「ど、どこへ……」
「貴様、名はなんと申す」
「は……名前、と」
「名前」
 呼ぶと、握った女の手に弱々しく力がこもった。
「雪はまだ残っておる。やるべき仕事があろう、まっとうしていけ」
 抗うすべなど持たぬことは、名前もとうに知っている。
 ならばせめて、すべてを終えてからここを離れて行けばよい。なにも残さぬように、綺麗に片付けてから新たな土地を踏めばよい。
 名前はか細い声で返事を返すと、最後に、ありがとうと礼を零した。彼女の居る冬が来ることはもうないのだ。




白銀の世界が終わる
御題:梅子さま
戦国、雪解け、別れ

2012.04.04
×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -