大した実感もなく、その日を迎えた。
 短いホームルームを終えて、体育館に移動するために廊下へ並ぶ。時間が来れば、それらは連なって動き出す。
 保護者や教員たちの拍手を聴きながら入場し、一礼してから、等間隔に配置されたパイプ椅子へと腰を下ろす。前日の練習と変わらず、わたしの右隣には真田くんが座っていた。
 皮肉なものだ。
 この席順を知ったとき、わたしはそう思ったのだった。入学当初から憧れを抱き、二年生になる頃にはそれが恋に変わり、三年生になって初めて同じクラスになった真田くん。しかし、一度だってその教室で彼との席が近くなることはなかった。隣はおろか、前後も、斜めも。
 それなのに、最後の最後で神様は意地が悪い。きょうは卒業式である。

 退屈な校長先生の挨拶も、やけに長い来賓の話も、真田くんはぴんと背筋を伸ばしたまま真剣に聴いていた。
 わたしはと云えば、真田くんが肩の触れ合うくらいすぐ近くに居ることでひどく緊張していた。落ち着かない。眠くなってしまうのではないかと思われた祝辞の紹介でさえ、目は冴え冴えとしている。その代わり、まったく耳には入って来なかった。
 卒業証書授与では名前が呼ばれる。真田くんの凛とした返事のあとのわたしの声は、すこし掠れてしまった。
 真田くんは国歌も校歌も、別れの歌も、ちゃんと唄っていた。彼の独特な声は、くちずさむ程度の音量でもよく透る。それを右耳に聴きながら、わたしも小さく唄った。
 ふと、こっそりと隣を見上げると、予想外のことに目が合った。慌てて前に視線を戻すも、気になってもう一度だけ盗み見る。真田くんは気恥ずかしそうにすこしだけ俯いて、それから再びわたしを見ると、小さく笑ってくれた。
 そんな、僅かながら特別な時間となった卒業式も、教頭先生の挨拶でもって閉式となる。入場と同じく拍手に送られながら体育館を出て、教室へと戻り、担任とこのクラスでの最後のホームルームを済ませ、やはり最後の集合写真を撮ってしまえば、高校生という肩書きはあっという間に過去のものとなるのだった。

 廊下も教室もきょう一番の賑やかさに包まれている。すぐに学校を出る生徒は少なく、皆好き好きに写真を撮ったりお喋りをしたりしていた。
 これで、最後。
 そう思いながら、真田くんの姿を探した。人気者である彼もまた、男女問わずいっしょに写真を撮ってくれ、と頼まれているようだった。困ったような、けれどやさしい笑みを浮かべて、次々に上げられるカメラのレンズに視線を向けている。
 これで最後なのだ。
 きっと、もう会うこともない。その笑顔を見ることも、声を聴くこともない。これから、お互いが知らない場所で、違う道を歩んでいかなければならない。
 そう思ったら、追いかけずにはいられなかった。

 少々気疲れしたのか、友人たちの輪からそっと抜け出した真田くんは、どうしてか階段を上がっていた。極力足音を響かせないように、けれど急いで付いていく。
 彼が手を掛けた大きな扉は、屋上へとつづくものだった。
「さ、真田くん」
 声を絞り出す。すこし震えた。
「……苗字殿、」
 一瞬きょとんと目を丸くした真田くんは、しかしすぐに笑って云うのだった。
「苗字殿も、屋上へ?」
 その問いに、どう答えたものかと数秒迷った末、わたしは違うとかぶりを振った。
「わたしは、その……ごめんなさい、真田くんを追って来たの」
「それがしを……?」
 首を捻る真田くんにうなずいてみせる。それからはことばが勝手に口をついて出てきた。
「最後だから、どうしても話をしたくて」
「話を……なれば、屋上へ参りましょうぞ」
「誰か居るかな」
「いや、みな写真撮影に夢中で屋上のことなど忘れているようにござる」
 そのことば通り、屋上に人影はなかった。打ちっぱなしのコンクリートの上、青い空が広がるそこは、春のにおいを微かに含んだ風がそよそよと泳いでいる。
「心地好うござるな」
 目を細める真田くんに、そうだね、と同意を返す。
「でも、ここに上がるのも、きっと最後になるね」
「そうかもしれぬな」
「寂しいなあ」
 本当になにもかも、最後なのだ。
 だからこうして、精一杯の勇気を振り絞って追いかけた。躊躇う理由などない。駄目でも、もう、会うことさえないのだから。
「真田くん、」
「なんでござろう」
「わたし、真田くんのこと、好きだったよ。それだけ、最後に伝えておこうって、思って」
 ほとんど接点もなかったふたり。きっと同じクラスになるまでは真田くんはわたしの存在すら知らなかったことだろう。それがこうして、いまふたりきりで話をしている。そのくらいには、親しくなれた。
 それで、充分だ。
「苗字殿」
「ごめんね、いきなりこんな、」
「それは、『最後』でなければ、いけないのだろうか」
「……え?」
 予期せぬことばに、流れる雲に向けていた視線を真田くんへと移す。彼のほうはその瞳を伏せていた。長い睫毛が下瞼に影を落とす傍ら、頬には薄く紅が差している。
「それがしはそのお気持ちを受けとるのみで、お応えすることは、叶わぬのだろうか」
 コンクリートを見つめていた瞳が、今度はしっかりとわたしを映す。視線に射止められたように、わたしは目を逸らすことができない。
 しかし、逸らす必要もないのだった。
 彼の目を見たまま、わたしはゆっくりと首を横に振った。
「そんなこと、ない」
「まことにござるか?」
「うん、」
 肯定の意を示せば、真田くんは表情を幾分か和らげる。安堵の色の浮かぶ口もとが、さらにことばを紡いだ。
「それがしは苗字殿のことをもっと知りたいと、思うのだ。これで、最後などと、云わないでくだされ」
 うなずくのが精一杯だった。ことばが見つからない。そうだったのだ。これで最後、最後と自分に云い聴かせながらも、わたしは最後になんてしたくなかった。
「そうでござる。写真を撮りましょうぞ」
「写真?」
「カメラを持ち合わせておるゆえ」
 云いながら、真田くんはデジタルカメラを掲げる。レンズを自分たちのほうに向けて、もう片方の腕でわたしを引き寄せた。
「現像したら、連絡いたしまするゆえ、」
「えっ、あ、ありがとう」
「その折りに、また、お逢いしましょうぞ」
 すぐ近くで真田くんの声がする。表情はわからなかったが、頬と頬が触れそうなほどの近距離に、わたしはどうにかなりそうだった。
「苗字殿」
「う、あ、はい、」
「笑ってくだされ」
「さ、真田く、」
「それがしは苗字殿の……いや、名前殿の笑顔が、好きなのだ」
 顔が熱くなるのがわかった。シャッターが切られる。とうぜん笑えるはずもなく、確認した小さな画面にはまっ赤な顔のわたしと、卒業式中に見せてくれたものと同じ、はにかんだような笑みを小さく零す真田くんが映っていた。




春風のフィルム
御題:沙布さま
現代、学生、卒業式
2012.04.01
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