駅員に切符を見せ、古びた駅舎を出る。空気の良し悪しがわかるほど己の身体は繊細なものではないが、呼吸をするたびにどことなく柔らかな風を体内に感じた。
 空を仰ぐ。
 自分がすっかり見慣れてしまった都会のそれよりも、いまこの上に広がる青は深く、そして広かった。緑に囲まれ、まっ白な雲がゆっくりと流れるこの地は紛れもなく自分の故郷だ。
「もしかして、幸村?」
 懐かしい声がした。顔を向ければ、自分の記憶しているよりもずっと大人びた彼女がそこに居た。
「ああ、やっぱりそうだ」
 髪を揺らして笑う、その笑顔は変わらない。
「久しぶりだな、名前」
「待ってたよ。何年ぶりかな」
「五年……いや、六年か?」
「そんなになるんだ。どうりで、背も髪も伸びているはずだね」
 俺を見上げてすこし気恥ずかしそうに云う名前は、たしかに最後に会ったときよりも小さく思えた。
 中学に上がって間もなく、俺の父親が他界した。母親はもともといないようなものであったため、それをきっかけに俺はひとりで上京を決めたのだった。都心近くで仕事を営む父の旧友、お館様が、自分を頼れと仰ってくれたのである。
 しかしこの折、高校を卒業したため久しぶりに帰省したというわけなのだ。
「じゃあ、行こうか。わたしの家、覚えてる?」
 ゆっくりと歩き出しながら、名前が悪戯っぽく訊いてきた。
「無論、覚えておるぞ」
「ほんとに?」
「当たり前だろう。しばらく帰っていなかったとはいえ、ここに住んでいた時間のほうが長いのだ」
「そっか、そうだね」
 名前と俺は幼馴染みで、昔から家族ぐるみで仲良くしていた。よく彼女の家に泊まりに行ったし、名前が俺の家へ泊まりにくることだってあった。今回も泊めてもらうことになったのだ。
「おばさんとおじさんは元気か?」
「元気元気。ふたりともうるさいくらいだよ」
 ひらひらと手を振ってあしらう仕草をしながら名前は笑った。
 やはり、彼女の隣は落ち着く。妙に鼓動が早くなるくせ、そう思った。上京してからは彼女とは手紙と電話のやりとりを偶にするのみであったというのに、驚くほど自然でいられるのだ。長いあいだ離れていたことなど忘れてしまいそうなくらいに。

 新芽が息吹く土手を歩く。なにもかもが鮮やかで、また、やさしく感じた。
「わたし、音楽をやってるのだけど」
 不意に名前がそんなことを云う。
「音楽?」
「曲をね、つくったの」
「すごいな」
 そういえば、名前はいつも音楽を聴いていた。聴くだけでなく、唄うのも好きであったはずだ。彼女の口ずさむ曲が俺の耳には心地好くて、よく子守唄の代わりになっていたことを思い出す。
「聴いてくれるかな」
 どこか落ち着きなく音楽プレーヤーをとり出すと、名前はイヤホンの片方を俺に差し出した。もう片方は彼女の耳に嵌められ、細い指は再生ボタンを押す。
 流れてきたのはなんとも名前らしい、たおやかな旋律だった。
 静かに紡がれるささやくような声も、名前のものだろう。話しているときとは印象の違う声は、しかし、幼い頃から聴き覚えのある彼女のうた声だ。
「いい曲だな」
 歩く早さが自然とゆるやかになる。肩が触れるほどすぐ隣に居る名前の小さな歩幅。微かに感じるふたりの心拍。繊細な曲の律動。ふわりと頬を撫でていく風。そういったあらゆるものが折り重なって、時間はとても悠然としたものに調律されていくのだった。
「幸村はさ、寂しくなかった?」
 ぽつりと名前がつぶやく。
「ここを離れてからの六年間、寂しいって、思わなかった?」
 左耳の鼓膜を震わす歌とは違う、むしろ淡々としたその声音からは意図を察することができない。
「寂しいとは、思わぬ。いまも、いままでも」
 自分の育ってきたこの場所を離れてから、お館様にお世話になり、いろんなことを学んだ。佐助や政宗殿たちとも出会った。都心での生活は充実している。ただひとつ想うことがあるならば、それはやはり、名前のことであった。
「ただ、愛しいとは、思っていた」
 汗をかいたわけでもないのにいつの間にか喉がひどく渇いていて、そう云った声は掠れていた。まるで自分の声ではないようだった。
「名前から手紙が届くたび、電話がかかってくるたびに、奇妙なもの哀しさを感じていたのだ」
 イヤホンから伝わる僅かな振動で、名前がこちらを見上げたことがわかった。しかし、俺は前を見据えたままつづける。
「それが、愛しいという感情なのだと、ひさしぶりに逢ってようやく気付いた」
「幸村、」
「名前に、逢いたかった」
 云いたいことを云いきって、名前のほうに目を向ける。名前は耳からイヤホンを外すと、僅かに潤んだ瞳を歪めてみせた。
「もう一回、云って」
「逢いたかった」
「うん……わたしも」
 俺もイヤホンを外す。息を吸い込むと、都心にはない青々とした草のにおいを感じた。
「逢いたかったよ」
 笑い声や泣き声、怒った声、驚いた声、それからうた声。いままで聴いた名前のそのどの声とも違う彼女の声を、ふわふわと宙に浮いたような気分でそっと呑み込んだ。




そのくちびるが紡ぐ唄
御題:葉月さま
音楽、田舎、徒歩

2012.03.25
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