冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。オリオンは空の頂上にそのベルトを結び、深い夜を支配していた。赤い右腕はひと際明るくひかっている。
「名前」
 曇りひとつない硝子を開けて、家康はわたしの名前を呼んだ。耳に心地好い彼の声がわたしは大好きだった。
「ベッドの準備ができたぞ」
「ありがとう」
「冷えるだろう。ほらおいで」
 そう広げられた腕に、遠慮なく飛び込んだ。家康はそのまま、わたしをふわふわの毛布でぎゅっと包み込んでくれる。毛布からも家康からもやさしい陽だまりのにおいがした。
「ホットミルクを淹れたんだが、飲むか?」
「わ、うれしい」
「それはよかった」
 安堵の色を笑みに浮かべながら、家康はわたしをソファへ座らせる。そうして一度キッチンへと引っ込むと両の手にマグカップを持って戻ってきた。
「ちゃんとミルクパンで温めたんだ」
「蜂蜜は?」
「もちろん、入れたよ」
「すごい。ありがとう」
「どういたしまして」
 手渡された蜂蜜入りのホットミルクをひと口啜る。微かな甘みは舌でゆるりと広がっていった。胸の奥底がじわりとあたたまっていく。
 わたしは、家康がわたしの好きなものをひとつずつ覚えていってくれるのがうれしかった。わたしも家康の好きなものをひとつずつ、ちゃんと覚えていきたいなと思う。それで、お互いの「好き」を共有できたなら、どんなに素敵なことだろう。
「きょうは部下が仕事を失敗してな、ワシまでとばっちりを喰らったよ」
「だから、すこし帰りが遅かったんだね」
「ああ、まいったまいった」
「おつかれさま」
「ありがとう。さて、そろそろか」
 家康が飲み干したマグカップをテーブルに置く。ソファから腰を上げてベッドへ向かうその後ろ姿を、わたしも追いかけた。
 大きなダブルベッドの羽毛布団を上げると、家康は中央を占領していた湯たんぽを足もとのほう、布団の奥へと滑らせた。それから大きな手でするりとシーツを撫でる。
「うん、よく暖まっているな」
「入っていい?」
「いいぞ」
 答えを聴く前に、わたしは綺麗にアイロンのかかったシーツへと飛び込んでいた。つづいて家康も隣にごろりと寝転がる。布団をふたりの首あたりまで引き上げれば、家康と、家康が用意してくれた湯たんぽのぬくもりが全身を包み込んでくれて、こころの底からほっとした。
 これが、わたしたちの冬の日課であり、楽しみだ。
 炊事洗濯は基本的にはわたしが家康の分までをする代わり、彼にはベットメイキングをお願いしている。シーツにアイロンをかけ、布団に湯たんぽを入れてもらう。それだけだけれど、しかし、たったそれだけのことでベッドはあたたかくわたしたちを迎え入れてくれるのだ。
「しかし、たまには部下といっしょに叱られるのも悪くないな」
「叱られないで済むなら、そのほうがいいよ」
「それはそうだが、初心に帰った気分になる」
「初心に」
「そう、初心に」
 ベットサイドの間接照明だけを残して、リモコンで部屋の電気を消す。暖色の明かりが暗がりのなかで仄かに家康の表情を浮かび上がらせる。丸い瞳は薄く細められていた。
「ワシにも、あの程度のことが上手くできなかった時がたしかにあったのだからな」
「あの程度」
「簡単な仕事だ。新入社員がやらされる仕事でな、」
 小難しいことはわからない。クライアントが云々、オファーが云々と話す家康は、けれど楽しそうだった。弾むような明るい声を聴きながら、わたしの瞼はゆるゆると重くなっていく。
「なんだ、名前。もう眠いのか」
 わたしの相槌がひどくいい加減なものになってきているのに気がついたのか、家康は仕方なさそうに小さく笑った。もっと彼の話を聴いてあげたかったな、とも思うのだけれど、隣に横たわるこの体温の云い様のない安心感が、わたしをゆっくりと夢の世界へといざなうのだ。
「ねえ、家康」
「どうした?」
「あしたの朝ごはんは、コーンポタージュとパンでいいかな」
「もちろん」
「おいしそうなパンをね、きょう、買ってきたから」
「それは楽しみだ」
 おやすみ。太陽のあたたかさを宿したすこし硬い手のひらが、ゆっくりとわたしの髪を撫でる。何度も何度も、絶対の静穏さを与えるように。そんなやさしい微睡みのなかで、きょうもこの最後の瞬間までわたしは家康を想うのだった。彼のほうもそうであったらいいな、と願いながら。




きみの夢を見るために
御題:花音さま
布団、湯たんぽ、寝る前のごろごろ

2012.03.21
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