今日の朝は時間がなくて、不本意にも朝ごはんを抜いてきてしまった。
 お腹が空いたなあ。
 朝のホームルームが終わって早々、誰にともなくぽつりと零す。返答など期待していなかったそんな呟きに隣の席の慶次くんが、これやるよ、と菓子パンを投げて寄越した。
「ええっ、いいの?」
「さっき買いすぎちまったんだ」
「まあ、たしかに……」
 それは買いすぎだ。机の横にかかるレジ袋に視線を落として納得する。どうしてそんなに買ったのかと訊くまえに、慶次くんはからりと笑った。
「安くなってるとついあれもこれもって欲しくなるんだよなあ」
「ああ、わかるわかる」
「だろ?」
「大抵あとでやっぱり要らなかったなあって、思うんだけどね」
 本当に必要なのかということもよく考えずに、安くなっていると知ると思わず手にとってしまう。よくあることだ。現に、慶次くんも自分には不要と考えて私にひとつ譲ったわけで。得をしたのは私。損をしたのは慶次くん。
「でも、あとで買っときゃよかったって、思うかも知れない」
 へらりとしながらも、口調だけは至極まじめに慶次くんが云った。それもそうかもしれない、なんて珍しく説得力ある彼の発言に考えさせられたところで授業のはじまりを告げるチャイムが鳴った。
 98円。目立つ黄色のシールが貼ってあるチョコレートデニッシュを鞄のなかへとしまう。次の休み時間にでも頂こう。それはもう、こころから感謝して。

「名前」
 いつお腹が鳴ってしまわないかとどぎまぎしていた1時限目も終わり、さっそく鞄からさっきもらったパンを取り出したところで名前を呼ばれた。誰かだなんて確認しなくてもわかる、大好きな声に。
 ただ、いつもより低いそれが少し気になった。
 機嫌が悪いのかもしれない、と肩越しに恐る恐る振り返れば、椅子に腰をかけたままの私を威圧感たっぷりに見下ろす幸村くんがそこには立っていた。
「ど、どうしたの、幸村くん」
「来い」
「う、え、」
 ぐいと腕を掴まれ、私のお尻は椅子からあっけなく引き剥がされてしまった。なんだなんだ、とわけもわからず教室から連れ出さる。左手には食べられることをいまかいまかと待ちわびているパンを持ったまま。

 長い足でお構いなしに廊下を突き進んでいく幸村くんはあれきりなにもことばを発しない。半ば引きずられるようにしてついていけば、そのうちひと気がなくなって、ついに周りには誰もいなくなった。気分はもはや、頼りになる味方が全員倒されてしまったレベルの低い戦士だ。
「あ、あの、幸村くん」
「……」
「もうすぐじゅぎょ……つ、あっ……!」
 刹那、身体右半分に痛みが走る。なにが起こったのか、喩えではなく本当に理解できず、投げ出された体制のまましばらく茫然としていた。そのうちに幸村くんは薄暗い教室の鍵をカチャリとかける。その静かな音がまた、恐怖心を煽った。どうやらここは、普段は使われない特別教室らしい。
 突き飛ばされた衝撃で手から離れてしまったパンが目に入り、再度そろりと手を伸ばす。しかし、寸でのところで幸村くんの足が勢いよくその手の先に落ちてきた。固い靴底がチョコレートデニッシュをなんの躊躇いもなしに踏み潰したのだ。つい、あ、と小さな声を上げてしまった。
「名前は、何度云っても、わからぬな」
 ひやりとした声を降りそそがせて、幸村くんは私の目の前にしゃがみこむ。
 同時に、ああ、と私はこころのなかで嘆息を漏らした。なにをそんなに怒っているのかと思えば、いつもの嫉妬ではないか。
 いや、その嫉妬が存外、恐ろしいのだけれど。
 しかし、捕らえるように覗き混んでくる瞳は薄暗がりでだってとても綺麗に煌めいていて、彼のその虹彩に見つめられるたび私の背にはなにかぞくりとした甘いものが駆け上るのだ。
「あれほど、他の男子と親しくするなと云っておろうに」
 それも、食い物につられるなどと。そう呆れたように付け加えて、幸村くんは眉を寄せた。
「あ、あれは、慶次くんが……っ」
「その呼び方も、気に食わぬ」
 高揚なく云い放たれたことばに慌てて口をつぐむ。とにかく、こうなった彼の前ではとっさの云い訳も、墓穴を掘るのみだった。
「名前は、三歩歩けばすぐ忘れる鶏か?」
 冷たく見下げられ、意志とは無関係に肌が粟立つ。弱々しく首を横に降ると、幸村くんはさも楽しげに口もとを緩めて見せた。
「怯えさせたいわけではないのだが、」
 瞳は私を捉えたまま、トレードマークとも云える赤い鉢巻きをするりとほどく。
「仕置きが必要とも思うのだ」
 どうだろうか、とあくまでもことばの上ではそう問いながら、その鉢巻きであろうことか私の目を覆った。抵抗することもできず、視界はあっというまに濃い紅に閉ざされる。
「ゆ、幸村く……」
 目隠しをとって欲しい、そう伝えるまえにことばは彼の唇へと吸い込まれていった。仕置きという語感とは裏腹に、しばらくのやさしい口づけのあとで、幸村くんは私の耳もとにそっとささやく。
「こうして、名前の声も聴覚も視覚も、すべて俺のものにしてしまえたらよいのに、な」
 吐息まじりの低い声。胸がきゅっとなるような切ない甘さに思わず身をふるりと震わした。姿が見えないぶん、些細な息づかいや衣擦れの音に妙に敏感になってしまって、鼓動が早くなるばかりだ。
「……幸村くんの、顔、見たい」
 やけに遠くで響くチャイムの音をどこか他人事のように聴きながら、まだ静かに私を見つめてくれているのであろう彼に呟いた。
「授業は始まってしまったが、」
「次から出るよ」
「そうか、すまぬな」
 私の頭の後ろの結び目をほどきながら、幸村くんが謝る。毎度のことながら、わざわざ謝るくらいならこんなことしなければいいのに、と思う。しかし、そのつど愛されているのだなあと実感するのもたしかだった。
 私だって嫉妬くらいするけれど、純粋でまっ直ぐゆえに幸村くんにおいてはそれが顕著に出る。思ったことをそのまま口にしてくれるそれが、さらに嬉しいのだ。私しか知らない幸村くんを見ているようで。
「それから、もうひとつ」
「なんだ?」
「食べ物は粗末にしちゃだめだよ」
 もはや原型がわからないほどぺしゃんこにされてしまったそれに目を向けて苦笑を漏らす。さすがに食べられないな、と残念に感じたところで自分がお腹が空いていることを思い出した。
 幸村くんが足もとのそのぺらぺらのパンを拾って立ち上がる。
「朝飯を食べておらぬのだったな、なにか買ってやろう」
「え、いいよ! 悪いって」
「いや、いいのだ」
 あとで名前の腹の音を聴いて、やはり買ってやればよかった、とは思いたくないのでな。
 からかうように笑って幸村くんはつかつかと教室を出ていく。かあっと火照った顔を冷ますようにように私は走ってその背中を追いかけた。




すべて奪ってしまおうか

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20110614
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