幸村くんはまるで春の日差しのようにやさしい、あたたかなひとだ。とてもまじめで、彼の背中には見えない芯がまっ直ぐに通っている。正直で、純粋な美しい軸だ。それから、甘いものが好きだなんてちょっと子どもっぽいところもある。
 そのすべてが私には眩しく見えた。

 私は幸村くんが好きなのだ。
 そう自覚したのは、本当につい最近のことだった。と云うより、嫌でも思い知らされてしまった。
 幸村くんが私に直接教えてくれたわけではなかったけれど、すぐに気づいてしまったのだ。彼に、おそらくは好きな女の子ができたのだと。
 それに気づいた瞬間、私のこころは勝手に傷つき、きりきりと痛んだ。
 きっと、初めてことばを交わしたときから、私は彼に惹かれていたのだ。振り返ってみれば、私が幸村くんのことを考えなかった日などなかった。
 どうしてすぐに気づけたのか、だなんて考えなくてもわかる。幸村くんがわかりやすいということもあるかもしれないけれど、いっしょにいる時間が多すぎるほどに、多かった。そしてなにより、そのあいだ私はこの目で絶えず無意識に彼を追っていたのだ。どうしたってふとした瞬間の何気ないことが、異常なほどに目についてしまった。
 幸村くんの数少ない女友達のなかでも私は特別、仲がいいほうだった。それはおごりでもなんでもなくて、少し前に幸村くん本人が私に向かってそう云ったのである。あるいは、そう突きつけた。
 幸村くんの瞳があの子を捉えるのを見るたびに胸が痛む。幸村くんがあの子と喋っている声が聴こえるたびに耳を塞ぎたくなる。嬉しそうな笑顔が、照れたような仕草が、どうしようもなく哀しくて。そして幸村くんが落ち込んでいるところを見かけたとき、どこかほっとする自分がいたのだ。そんな自分にもひどく嫌気が差した。
 恋なんて、辛いことばかりだ。

 甘ったるい味が舌に絡みつく。それを鬱陶しいと思うのに、まるでやめることができなかった。まるで麻酔薬のように、こころの感覚を濃厚な甘さで麻痺させていく。もういくつ目かもわからないチョコレートを口に運ぼうとしたとき、教室のドアがどこか力なく開いた。
 目だけをそちらに向けると、そこにはユニフォーム姿の幸村くん。頭のてっぺんから爪先までみごとにずぶ濡れだ。幸村くんもまさか人が残っているとは思わなかったのか、もともと大きな硝子玉みたいな瞳をさらに大きくして、けれども存外静かに呟いた。
「名前殿……おひとりにござるか」
 うん、と私はうなずいて見せる。
「すごいね、夕立。まだ部活中だったんだ」
「うむ。片付けをしていたところで降られてしまったのだ」
「わ、お気の毒……。でも、なにしに教室まで上がってきたの?」
「傘を置いたままだったのでな。それに、これでは着替えてから帰らなくてはならぬ」
「部室で着替えてくればよかったのに」
「校舎と離れておるゆえ、制服が濡れてしまうでござろう」
 困ったように笑う幸村くんの、その笑顔がどことなく暗い気がした。痛々しいような、無理をしているような。なにかあったの、と訊きたかったけれど、口をついて出たのは結局、そっか、なんて当たり障りのない返事だった。
「ここで着替えても構わぬか」
「いいよ、べつに」
「すまぬな」
 幸村くんはそう云って、濡れて肌に貼りついたユニフォームを脱ぎ捨てる。相変わらず綺麗に割れた腹筋が惜しげもなく晒された。それから濡れてしまった髪や身体の水気をタオルで拭っていく。
「……名前殿」
「ん?」
「そ、そのようにじっと見られると落ちつかぬのだが……」
「え、ああ、ごめん」
 恥ずかしげに頬を赤くする幸村くんに、我に返った私は内心どきどきしながらも、しかしこころを重たくしていた。さっきから胸のあたりをずっしりとした鉛のようななにかが圧迫してくるのだ。

 幸村くんが着替え終わったあと、私は彼にチョコレートをひとつ手渡した。
「なんか、元気ないみたいだから」
 余計なお世話かなとも思ったけれど、私にできることと云えばこのくらいで。幸村くんはかたじけない、なんてかしこまりながら手に乗ったチョコレートを口に放り込んだ。それから、ゆっくりと私の近くの椅子を引いて腰を下ろす。
「ふられて、しまったのだ」
 一瞬、聴きまちがえかと自分の耳を疑った。あまりにも唐突すぎて何の話かもわからなかったのだ。でも、それはどう考えても先ほどの「降られてしまったのだ」の「降られる」とはイントネーションが違っていたのだった。
「やっぱり、好きなひといたんだ、幸村くん」
 念のため、そう確認すると、しばらくの間を置いて幸村くんはうなずいた。
「……うむ。しかし、ほかに好いている者がいるのだと、云われてしまった」
「……そっ、か」
「なにゆえ、気付けなかったのかと自分でも情けないのだ。もしかしたら、など、あるはずがなかったというのに」
 瞳を伏せて、眉を寄せて、いまにも泣き出してしまいそうな声が云う。それがあの子を想ってのことばだと思うと、切なくて切なくて仕方がなかった。できることならこんな話、聴きたくはなかった。それも、幸村くん自身の口から。
 私だったら幸村くんにこんな表情させないのに。誰よりも一途に想ってあげられるのに。あの子に比べたら私はぜんぜんかわいくないし、女の子らしくもないけれど、それだけは負けない自信があった。それなのに。
「頑張ったよ、幸村くん。好きなひとにちゃんと好きって伝えられるの、すごいと思う」
 私は、ずっと伝えられないままだ。
「……そう、だろうか」
「そうだよ」
「しかし、もう友だちにすら戻れぬ」
「そのうち、また話せるようになるよ、きっと」
 あんまり落ち込まないで、とその濡れた髪をわしゃわしゃと撫でる。驚いたように幸村くんの肩が跳ねたけれど、抵抗されることはなかった。
「早く忘れちゃいな、なんて云わないけど、女の子はあの子だけじゃないもん。また素敵な子に出逢えるよ」
 まるで自分に云い聴かせるように私の口からはぽろぽろとことばが零れていく。
「大丈夫、元気だして」
「すまぬ、このような話……」
「ううん。わかるよ、幸村くんの気持ち。すごくよくわかる」
「名前殿?」
「好きなひとの目がほかの子に向いているのは、辛いよね」
「名前殿にも好いておる者がいるのか」
 ゆるりと幸村くんが顔を上げた。まっすぐに私を見てくれるその瞳が、いまはひどく胸を締めつける。
 ひどい人だ。
 それを、私に訊くなんて。
「……いるよ」
 泣き出したくなるのを必死にこらえて、つとめて静かにそう答えた。
「なんと……それは、名前殿が慕うくらいだ、よき御仁なのだろうな」
「とてもやさしいひとだよ」
「某、応援しておるゆえ、気持ちを伝えるまでは諦めないで下され。いっしょになれるとよいな」
「……うん、ありがと」
 幸村くんはきっと、そのやさしさがどんなに残酷かを知らない。私を思って紡いでくれたそのことばが、どれほど私の胸をえぐるのか、なにも知らないのだ。
 まっ白で霞なんてかけらもないからこそ、そのことばはどこまでも深く深くしみて、声もでないほど痛かった。

 時計を見た幸村くんがもう帰らねば、と少し慌てて立ち上がった。雨の日は暗くなるのが早い。窓の外はいつもより闇が分厚く何層にも折り重なっていた。
「その、名前殿は、傘は持っておられるか」
「持ってるよ、平気」
「そうか。ならば某はもう帰るが」
「うん、またね」
「うむ。また明日」
 傘立てから自分の傘を引き抜いて、幸村くんは教室から出ていく。その背中が見えなくなる前に、私の視界はもう滲みはじめた。
 幸村くんが失恋した。
 それを聴いて一瞬でも喜んでしまった私は、ひどく浅はかで、どうしようもないくらい最低だ。それがどんなに辛いことなのか私だってよくわかっているはずなのに。幸村くんにもそう云ったくせに。
 傘を持っているだなんて嘘だった。もしも私が忘れたと知れば、やさしい幸村くんのことだから無理やりにでも傘を貸そうとするだろう。拒めばきっと、なにも考えず相合い傘だって切り出してくる。
 そういうひとだ、幸村くんは。
 けれど、これ以上いっしょにいたら云ってしまいそうだった。私の好きなひとは幸村くんなんだって。けれど私は、あの口から直接ことばを聴くのが怖くてきっと逃げ出してしまう。そうしたらもう、幸村くんが云ったように友だちには戻れなくなる。フラれるとわかっているならば、いまの関係を崩す道理なんてない。臆病者の言い訳だってわかってはいるけれど、私はまだ幸村くんの傍にいたかった。
 立ち上がる。
 雨はまだまだ上がりそうにない。
 今日はもう降られて帰ろう、そう決めて誰もいない教室をあとにする。舌にはまだ毒々しいまでの甘さがこびりついていて、やっぱり恋なんて辛いことばかりだ、と小さく吐息した。




夕立にふられたら

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20110524
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