私は森にいた。
 いつからここにいたのか、どこからどうやってきたのか、なにも思い出せない。走って走って、気がついたらここにいた。見渡すかぎり木、木、木。深い緑が空を隠してしまっていて、いまが朝なのか昼なのか、あるいは夜なのかもわからなかった。
 途方に暮れる。
 裸足のまま際限なく歩き回るのにも疲れてしまって、大きな木の幹を背に座り込んだ。空腹と疲労で死んでしまいそうだ。私はどうしたらいいのだろう。どうしたいのだろう。情報が少なすぎて涙さえ出なかった。たぶん混乱しているのだ。

 サク、サク。土を覆う葉や枝を踏みしめる音がした。俯いていた視界に誰かの足が入る。顔を上げれば、見知らぬ男の人が私を見下ろしていた。
「何をしているのかね」
 男の人が訊ねた。私はなにをしているのだろう。考えてみたけれど、だめだった。
「わかりません」
「では、何処から来たのだね」
「たぶん、遠くから」
「名は何と云う」
「わかりません」
 沸き上がる不安を抑えつけながら首をゆるゆると横に振れば、男の人はその口もとに薄く笑みを浮かべて、私と目線を合わせるように片膝をついた。
「名がないのかね」
「……憶えていないんです」
 憶えていないわけではなかった。もと居た場所も、私はちゃんと知っていた。けれど、口にしないほうがいいことも私はこのチグハグな世界に来てすぐ知ったのだ。
「そうか。私は松永久秀だ。その空になってしまった頭の隅にでも置いておくといい」
 松永さんのそれは嫌味な云い方だったけれど、事実なので反論はできないし、しようとも思わなかった。嘘を見破られないようにするには、本当になにもわからない振りをするに限るのだ。うなずく私に彼は高揚のない声で続ける。
「しかし、卿は奇怪な格好をしているな」
「そう、ですか」
「実に興味深いよ」
 底の見えない沼のような瞳が舐めるような視線を向ける。私には松永さんのほうが可笑しな格好をしているように思えたが、この世界の住人である彼がそう云うのならそうなのだろう。そもそもここがどこなのか、それすらもわからないのだ。
「私は、誰なんでしょうか」
 見ず知らずの男性にそんなことを訊いても仕方ないことだとは充分に理解しきっていたが、声に出さずにはいられなかった。ほとんど、自問自答のようなものだ。私の知っている人は誰もいない。私を知っている人も誰ひとりとしていない。自分で自分がわからなくなりそうだった。
 私は誰なのだろう。
 誰も知らない。
 たったそれだけ。
 しかし松永さんは少し考えるふりをすると、唐突に口を開いた。
「卿には理由を贈ろう」
「理由……?」
「私が卿を欲す理由だ。私は珍しい品を集めるのが好きでね、欲望のままものを手に入れてきた」
 よくわからなかった。私の顔にはあからさまに疑問の色が浮かんでいることだろう。しかしそれを気にする様子もなく、彼は続けた。
「卿は人魚だ」
 いくら私でも自分が人間であることくらいは知っていた。そんなものはまったくのデタラメだ。
「違うと、思います」
「いや、卿は人魚なのだよ」
「うそです」
「記憶がないのに、云い張れるのかね」
「……」
 それを云われてしまったら、なにも返すことばがなかった。下手を打ってはいけない。けれど、松永さんはそうして私が困るのを楽しんでいるようにも見える。わざと見え透いた嘘をついて私を弄んでいるのだ。
「足の代わりに記憶を失ったのだよ、卿は」
 演技じみた科白を吐きながら、彼は私のワンピースから剥き出しになった生足をしっとりと撫で上げた。思わず身震いする。鳥肌がたった。けれど、不思議と嫌悪は感じなかった。
「人魚の肉を喰らうと、不老不死になれると聞く。それをこんなところでお目にかかれるとは、私はつくづく運がいい」
 それを手に入れない道理があるかね。肩に手を置かれ、頬を寄せるようにして耳もとで囁かれる。香水かなにかだろうか、ふわりと甘い不思議な香りに包まれた。くらりと目眩が襲う。
「私と共に来たまえ」
 ぼんやりとした思考のまま、私はうなずいた。やっとだ。やっと、見つけてくれた。私を認めてくれる人が、現れたのだ。涙が出そうだった。

 手をとられ、ひっぱり起こされる。ふらつく足下を支えるように、松永さんは私の胴に腕を回してくれた。
「それから、卿には名も贈らねばならないな」
「名前、くれるんですか」
「無いと不便だろう。いつまでも名もなき人魚では可哀想だ」
 歩みを進めながら彼は私の瞳を覗き込む。すべてを見透かされているような、奇妙な感覚。
「そうだな、名前としよう」
「名前……」
「不満かね、名前」
「いえ、嬉しいです」
 久しぶりによんでもらえた名前に、霞んでいた自分を取り戻したような気がした。なぜ、どうして。そう思わないわけではなかったけれど、もはやそんなことは問題でない。
「卿はとても賢そうだ」
 愉快、愉快。楽しそうに彼は笑った。




森を泳ぐさかな
20110401

四月莫迦企画にて
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