国語の教科書を忘れたことに気がついたのは授業がはじまる直前だった。忘れ物はめずらしいことでもない。むしろよくあることと云えた。
「なあ、苗字」
「なに?」
「教科書見せてくれねえか」
「いいけど、また忘れたの」
「おう、わりぃな」
 口では謝りながらも頬はいたずらに緩んだ。苗字にしたって、仕方ないとかなんとか云いながらいつも断ることはない。気さくなやつなのだ。しかし、そんな彼女が恋愛対象に入るかと訊かれれば、答えは否。いいやつであることに変わりはないが、俺たちは友だちだ。それ以上でもなく、それ以下でもない。苗字だってそう思っていることだろう。

 意志とは無関係にあくびが漏れ出た。授業は教科に限らず退屈だ。ふと隣に目を向けると苗字と視線がかち合った。あれ、と思う。
「もしかして、前髪切ったのか?」
「あ……うん。よく気づいたね」
「意外と見てるんだぜ、俺」
 前髪をつまみ上げる彼女に、軽い気持ちでそう云った。苗字は驚いたように一瞬だけ目を丸くしたが、なに云ってるの、とあしらうように返した。その反応が面白くない俺は、つい冗談を云って慌てさせたくなる。
「なあ、苗字」
「なに?」
「俺、お前のこと好きなんだぜ」
 教科書見せてくれねえか、とほとんど変わらない調子だった。にい、と自然と口角が上がる。もともと俺は人をおちょくったりするのが好きだ。しかしまあ、どうせまた適当に流されるのだろう。そう思っていたのだが、苗字の反応は予想に反したものだった。
「……え?」
 彼女の表情が固まる。同時に見てわかるくらいにその顔が赤くなっていく。え? と訊きたいのはこっちのほうだった。なんなんだそのリアクションは。どういう意味だ。いつもみたいに「なに云ってるの」ってあしらえばいいじゃねえか。
「苗字?」
 名前を呼んでみるも、苗字は目線を右往左往させたあと、ついに俯いてしまった。髪で隠れてしまって表情はわからないが、ちらりと覗く耳は驚くほどまっ赤だ。いまは授業中ということもあって下手に声はかけられないし、どうしたものかと悩むほかなかった。

 そのあと、休み時間や次の授業でも苗字は目に見えて挙動不審で、あきらかに俺を避けているようだった。その動作ひとつひとつをどうにも意識してしまって、俺は終始ドキドキしっぱなしだった。とにかくおかしかった。結局、それからは放課後までひと言も喋ることなく1日が終わって、彼女も俺もそのまま帰宅する。しかし、学校を出ても家に帰っても脳裏に浮かぶのは苗字のあの表情。驚きと照れと羞恥をぜんぶ詰め込んだみたいな潤んだ瞳。思い出すたびに顔が熱くなる。
「なんなんだよ……」
 どうしてあんな顔するんだ。俺たちは友だちじゃなかったのか? 苗字は俺のことどう思っているんだ。俺は、俺自身は苗字のことをどう思っているんだ? というか、アイツってあんなに可愛かったか?
 疑問ばかりが渦を巻く。こんなにも情けないことはなかった。今まで知らなかった彼女の一面をいたずらに垣間見てしまったことで自分のなかのなにもかもが狂ってしまったのだ。心臓の音がうるさく頭に鳴り響いていた。

「アンタ、俺のことどう思ってんだ?」
 そう思いきって訪ねたのは次の日の朝だった。俺はと云えば、一晩考えて結論は出ている。教室へ向かう途中の廊下、引き留められた彼女はしかしなにも云わない。ただあの時のように固まって、顔を赤くしながらも泣きそうな目で俺を凝視するばかりだ。
「俺は苗字が好きだ。つーか、好きになった」
「ど、どういう……」
「いや……昨日のあれは、冗談だったのよ」
「じょう、だん?」
「だが聴いてくれ。俺は昨日のそれで苗字が好きになっちまった」
 我ながらおかしな話だとは思う。俺が苗字の立場でも呆れて笑っただろう。だが現にあの瞬間から俺の頭は苗字のことでいっぱいであるし、声とか仕草とかそういったものがいちいち気になった。挙げ句の果てには夢にまで出てきたのだ。
「も、もとちかくん」
 苗字の震えたような声が俺の名前を呼んだ。そんなこと、いままでだったらなんでもないことのはずだったのに、それだけでどくりと胸が高鳴る。
「わ、私は、元親くんのこと、ずっと好きだった」
「苗字、」
「でも、友だちとしか思ってもらえていないのも、知っていたから」
「俺もそう思ってた。自分ではそこまで鈍感じゃねえと思っていたんだがな……」
「鈍感だよ! ……すごい、鈍感」
「それはすまなかった」
「私、もう、びっくりしちゃって、なにも云えなかった」
 避けたりしてごめん、と俯く彼女の頭にポンと手をのせる。こんなに小さかったのだとか、意外と髪が柔らかいのだとか、そんなことばかりが気になってしまう。俺は苗字のことなどなにも知らなかったのだ。
 いつだって気さくで、仕方ないなと笑ってくれる彼女が、こころの奥底では俺を思ってくれていた。そう考えると溢れてくるのはどうしようもない愛しさで、ここが廊下だとかそんなことも気にせず抱きしめたくなった。
「名前、好きだ」
 確認するように声に出してみる。間違いなんかじゃない。一時の錯覚なんかでもない。それは紛れもなく俺の気持ちだった。はにかむようにうなずいた名前の、そんな表情がもっと見たいと思った。




嘘つきは恋のはじまり
20110401

四月莫迦企画にて
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