「元就くん」
 小鳥がさえずるようなソプラノで名前先輩が我の名を呼んだ。頭ひとつ分くらい小さな彼女を見下ろすも、その瞳は我ではなく別の場所に向けられていた。
「私、ほかに好きなひとができた」
 そう告げられたのが、今日の登校中だった。

 あの瞬間はなんて返せばよいのか何もことばが見つからず、そうか、としか云えなかった。名前先輩もそれからはひと言も喋ることなく、終始俯いたままだった。
 まさか彼女のこころが自分以外の者に移るだなどと考えたこともなかった。大体、昨日の帰り道では好きだとかなんとか云っていたではないか。あれは嘘ということなのか。そもそも新しい想い人とやらは一体どこのどいつなのだ。……このようなこと、計算しておらぬぞ。
 退屈しのぎにもならぬくだらない授業を聴き流しながら、ひたすらに名前先輩のことを考えた。1時限目も2時限目も、その次も。学年が違うというのは存外不便なもので、休み時間に廊下に出てみても階の違う先輩と逢うことはなかった。そして釣れなくともよいものが釣れたりするのだ。
「毛利じゃねえか、珍しいな。なにしてんだ」
「黙れ長曾我部。貴様には関係ない」
「いつになくピリピリしてんな。さては苗字先輩と何かあったか?」
 にやにやといかにも下卑た笑みを浮かべたヤツのひと言に、己のなかのなにかがプツリと切れるのがわかった。
「お、その反応はもしかして図星」
「焼け焦げよ……!」
「いっ、てえ!」
 目潰しを喰らわして駆け出す。もう昼休みまで待ってなどいられなかった。断じて長曾我部の挑発に乗せられたわけではない。それだけはない。

 階段を下って名前先輩の教室まで向かう。もうすぐ授業が始まるというのになにをしているんだ、とでも云いたげな上級生たちの視線が突き刺さった。しかしそんなことを気にする余裕もない。
「名前先輩……!」
 文化系の定めか、少し走っただけでもだいぶ息が上がっていた。もうすでに席についている上級生たちが何事だと振り返るなか、目的の人物が驚いたように立ち上がった。
「……元就くん?」
「少し、いいですか、」
「え、でも、もうすぐ先生来ちゃうよ」
「構いません」
「うわ、わっ、ちょっと!」
 教室の奥まで歩いていって、彼女の腕を掴み無理やり連れ出した。サボりなどはしたことがなかったため、どの場所が見つかりにくいというようなことはまったく知らないのだが、ここなら大丈夫だろうと使われていない視聴覚室に向かった。その間、やはり彼女も我も声を発しなかった。

 ドアを閉めて、施錠までする。痛いほど張りつめた空気が部屋を満たしていた。
「……誰なのだ」
「え?」
「貴様が云っていた想い人とは誰なのかと訊いておる」
 彼女の黒々とした瞳がわずかに見開かれる。なにを今さら驚くことがあるというのか。しばしの沈黙ののち、名前先輩の唇からは聞き逃してしまいそうなくらいか細い声が出た。
「……元就くん、気にしてたの」
「あっ当たり前であろう」
「そ、そう。てっきり、どうでもいいんだって思ってた。それか、嘘だってわかったのかなって」
 あきらかに戸惑いを見せる名前先輩に、しかし我はことばを失った。一体、どういうことなのだ。
「その……嘘、なんだけど」
 再度、様子を伺うような口ぶりで繰り返される。嘘、だと……? あまりのことに身動きすらできなかった。我はたかが戯れ言ひとつに今の今まで振り回されていたということなのか。こんな、ふざけたことに。
「……なにゆえ、斯様な嘘をついたのだ」
「エイプリルフール」
「なに……?」
「だから4月1日、エイプリルフールだよ」
 昼休みにはバラして撤回するつもりだったんだけど、と名前先輩は困ったような表情で続けた。そうか、今日はエイプリルフールか。
「うかつ……!」
「ていうか元就くん、敬語はどこいったの」
「知らぬ。元より我の性分ではないわ」
「まあ、たしかに……」
「もうよいわ。用は済んだ」
「あ、待って」
 どうも納得いかぬ気分のまま視聴覚室を出ようとすると、名前先輩に引き留められた。我の制服の袖を掴む小さな手が目に入る。無視するなど到底できるはずもなかった。
「なんぞ」
「あの、ありがとう、ね」
「……は、」
「嬉しかった。わざわざこっちの教室まで来てくれて」
 はにかむように告げられて、体温が上がるのを感じた。顔が熱い。まったくどうして、今日はとことん自分らしくない。
「元就くんが走ってきてくれるなんて、思わなかった」
「……そうであろうな」
「へへ、好きだよ。元就くんのそういうとこ」
「……勝手に云っておるがよい」
 授業の最中であるし、教室に帰る気も失せてしまってそのままその場に座り込む。名前先輩もいっしょになって隣に腰を下ろして、チャイムが鳴るまでなにをするでもなくただふたりでそうしていた。




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20110401

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