遅い。遅すぎる。So late.
 今日の食事当番が俺であるのをいいことに、姉の名前はなかなか仕事から帰ってこない。苛立ちがつのる。腹も減ったし、飯も冷めちまう。

 父親は単身赴任。母親はいない。そんなわけで親父は年に数回の長期休暇に帰ってくるものの、俺と名前はほとんどふたりで暮らしていた。俺はこの春で高校最終学年、名前は社会人2年目だ。
 いままでの生活に不便を感じたことはなかったし、不幸だとも思わなかった。俺は名前がいればそれでよかったのだ。彼女は自分が母親から受けるはずだった愛情まで、すべて俺に注ぎこんでくれた。

 ガチャリとドアノブの回る音がした。どうやら、ようやく帰ってきたらしい。足早に玄関に向かうと、名前は悪びれる様子もなく、ただいまと云った。
「……遅えよ」
「ごめんね、仕事長引いちゃった」
「連絡くらい入れろよ」
「今度から気を付けるよ」
 へらりと名前は笑って玄関を上がる。いつもそう云うが、しばらく経つとすぐ忘れるのが名前だった。それくらい仕事が忙しいのだと思うことにする。
「政宗、」
「Ah?」
「ただいま」
「……Welcome home」
 子どもじみている。しかし俺は名前のそんなところも好きだった。もちろん家族として、だが。俺が云ったおかえりに嬉しそうにうなずくところも可愛いと思う。
「飯、食うだろ?」
「うん。お腹空いた」
「今日は名前の好物だぜ」
「あ、また呼び捨て」
「いいだろ、別に」
「お姉ちゃんって呼んでよ」
 不服そうに眉を寄せる。どうも名前は弟に同等扱いされるのが不満らしく、曲がりなりにも『お姉ちゃん』でありたいようだった。

 テーブルについて、少し温め直した飯を黙々と食べる。今日はやけに静かだ。いつもなら上司の愚痴だとか同僚との間で起きた面白い出来事なんかをこれでもかってくらい喋るのに、一体どういう風の吹きまわしか。俺だって普段はバイト先のことなんかを話すのだが、名前の雰囲気がなぜかそうさせなかった。
「なにかあったのか」
 重苦しい沈黙が痛くて、どうにかそう訊ねる。名前は料理に向けていた視線を上げると、気まずそうに口ごもった。
「その……」
「なんだよ」
「私、さ」
 結婚することになったの。
 名前が照れ臭そうにはにかむ。一瞬、すべての音が遠ざかった。What, なんだって? 結婚する? 誰と誰が。
 いやいや、落ち着け。自分に云い聴かせる。そもそも名前に付き合ってるやつなんかいたのか? それとも俺が知らなかっただけなのか。焦る気を静めるために茶をあおった。
「Ha! 冗談はよせよ」
「冗談じゃないよ」
「じゃあ誰とだ」
「小十郎さん」
「……はあ!?」
 一番あり得ない人物の名前が出てきてしまった。
「こっ、ここ小十郎って、小十郎か」
「うん。片倉小十郎さん」
「……嘘だろ」
「本当だよ」
 片倉小十郎。家が近所だったということもあって、俺や名前が幼いときから何かと面倒を見てくれていた男だった。
「No! だめだ!」
「なんで?」
「アイツはだめだ! つーか、なんでよりにもよって小十郎なんだよ!」
「小十郎さんやさしいし、素敵なひとだよ。政宗も知ってるでしょう」
「とにかく! 俺は認めねーからな!」
 云い捨て、席を立って自分の部屋へと引っ込む。飯は半分も残っていたが食べる気になれなかった。小十郎だと? ふざけやがって。大体いつから付き合ってたんだよ。
 それに……それに名前が結婚するってことはこの家を出ていくってことだ。いつだって傍にいてくれた名前が、いなくなる。それはひどく非現実的で、淋しかった。かと云って小十郎がこの家に来ることだけは遠慮してもらいたい。

「政宗、政宗あけて」
 コンコン、と控えめなknockがお世辞にも広いとは云えない部屋に響いた。
「……開いてるっつの」
 呟きながらも戸を開けてやる。考えれば考えるほど気が沈んでいく俺とは裏腹に、彼女は平然とそこに佇んでいた。
「もう、政宗は私のお父さん?」
「いやでも親父だってそう云うと思うぜ」
「そんなことなかったよ」
「えっ、もう話したのか」
「うん」
 ショックとか云うレベルではなかった。てっきり名前は俺に一番最初に話してくれたのだと思っていたのだ。たとえ先を越されたのが親父だったとしても今の俺にはこたえた。
 ふつふつと胸のずっと奥から沸き上がるこれはなんだ。嫉妬か? 憎悪か? とにかく、目の前の女が憎くて憎くて、愛しくてたまらなかった。
「……行くなよ」
「政宗?」
「行かないでくれ」
 逃げることができないように自分よりもずいぶんと小さい身体をかき抱く。いま名前は俺の腕のなかにいるのだ。そう思うとひどく安心できた。
 次第に名前の肩が震えだした。泣いているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。驚かせんなよ、と胸のうちだけで毒づく。
「なに笑ってんだ」
「いや、ちっちゃい子みたいだと思って」
「……俺は嫌だからな。小十郎なんて」
「それ、嘘」
「は?」
「嘘だよ政宗。私、まだ結婚しない」
 くつくつと堪えきれていない笑い声が腕のなかで零れた。なんだよ、嘘って。そうは思うものの、怒りよりも先に安堵のほうが勝った。名前を抱きしめていた腕も力が抜ける。
「……小十郎とは、付き合ってんのか」
「小十郎さんが私みたいな子ども、相手にするわけないじゃない」
「だよなあ……」
「なにそれ、失礼」
「自分で云ったんじゃねえか」
 名前の細い肩に顎を乗せると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。それから、ふいに頭を撫でられる。それこそ子どもにやるみたいに。その扱いには不満を覚えたが、しかし俺はもうことばが出なかった。
「なに泣いてんのよ」
 名前が呆れたように零した。




グッバイ・シスター
20110401

四月莫迦企画にて
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テーマ「人外ファンタジー」
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