目が覚めたとき、未だに夢心地の気分のなかで一番に思ったのは彼女のことだった。今日はシフト被ってたっけな。元気かな。早く逢いたい。その次に、いま何時だ、とぼんやりした頭のままで時計を見やる。そして飛び起きた。
「やっべえ……!」
 眠気なんて一気にふっ跳ぶ出勤5分前。慌てて歯磨きをして顔を洗って、髪も泣く泣く適当に撫で付けて、着替えて家を飛び出した。今日の俺様はちょっと格好悪い。精一杯急いだつもりだったけれど、結局バイト先のファミレスについたのは30分以上遅刻した頃だった。
 店長にぐちぐちと叱られながらも更衣室に飛び込んでユニフォームに着替える。エプロンを腰の後ろで結びながら狭い空間を出ると、ちょうど彼女と鉢合わせた。
「あ、」
「え?」
 驚いたような目が俺を捉える。それにちょっとだけ違和感を感じた。しかし、アップにした髪のせいで無防備に晒されたうなじも、薄くほどこしてある透明感あふれるナチュラルメイクも、いつもといっしょで見た目はなにもかわらない。
 それなのに。
「あれ? はじめまして……ですよね?」
 こてん、と無邪気に傾げられた首。なにを云われているのか、真面目に理解できなかった。
「やだなあ、そんな下手な冗談」
「冗談?」
「冗談でしょ」
「いえ、その……あ、私、苗字名前って云います」
「は? い、いや、猿飛、佐助……です」
「猿飛さん、ですね。新人さんですか?」
 よろしくお願いしますね! とまるできらきらした笑顔を振り撒いて、ひとつお辞儀をすると彼女はフロアへと行ってしまう。俺はと云えば茫然とその場に立ち尽くすしかなかった。動けなかったのだ。一体、名前ちゃんになにがあったと云うのだろう。
 あまりに着替えが遅いのを見かねてか、しばらくして店長の怒声が響いた。いけないいけない。ようやく我に返ってキッチンへと足早に向かったものの、まだ夢でも見ているんじゃないかという気分だった。というか、夢であってほしかった。

 名前ちゃんは俺が好きだと云ってくれていた。佐助さん佐助さん、なんて呼んで慕ってくれていたし、俺もそんな名前ちゃんが好きだった。つまり、恋人同士なわけだ。それがどうしてこうなったわけ?
「慶次」
 自分でもびっくりするくらい低い声が出た。
「俺の名前ちゃんに話しかけないでくれない?」
「『俺の名前ちゃん』って……。仕方ないだろ、俺もフロアなんだからさ。それにいまは名前ちゃんのほうから、」
「嘘だね」
「嘘じゃねえって」
 はああ、と慶次はわざとらしくため息をついてみせる。それが無性に苛立った。
「云っただろ。事故だったんだよ、名前ちゃんの記憶喪失は」
 そうなのだ。話によると昨日、俺はシフトが入っていなかったから知らないのだが、どうも名前ちゃんがバイト中に転んで頭を打ったらしい。そのときは彼女も平然としていて目立った外傷もなかったので、ほかのみんなもひどく安心したとのこと。
 ところがどうだ。今日になってみたら、すっかり猿飛佐助についての記憶だけが抜け落ちていた。名前ちゃんが好きだと云ってくれた他でもないこの俺様のことである。ああ、あんまりだ。
「どうして慶次じゃ駄目だったんだよ……」
「ひっでえ」
「愛しすぎるあまりなのかな、そうなのかな」
「いや……どうでもよかったんじゃない?」
「お黙り!」
「わわ、冗談だって」
 とにもかくにも、今のままでは生きた心地がしなかった。俺が好きって云ったことも、名前ちゃんが好きって云ってくれたことも、いっしょに過ごしてきた時間全部が彼女の記憶に1ミリたりとも残っていないことが哀しくて虚しくて仕方なかった。かと云って、記憶を失った彼女を責めることもできない。
「もう俺様、慶次に八つ当たりするしかできない……」
「なんで俺?」
「さっき名前ちゃんと話してたから」
「政宗も話してたよ! ほら! いまも!」
 あっち! と慶次の指差す先にはたしかに名前ちゃんと政宗の姿があった。屈託のない笑顔で受け答えする名前ちゃんにどうしようもなく腹が立った。なんだあれなんだあれ。アンタが好きなのは俺じゃなかったのかよ。なんで政宗なんかに笑いかけてんのさ。なあ。
 そんな感じで今日の俺様はちょっとどころか最高に格好悪かった。注文と全く違うもの作っちゃうわ高熱の鉄板で火傷はするわ、ハンバーグ崩すわオムライスには穴空けるわ、もう散々だった。何度も店長に叱られながらも、なんとか長い1日を終えた。

 私服に着替え終えて、控え室でぼうっとシフト表をめくっていると、ガチャリと音をたててドアが開いた。顔を上げると名前ちゃんと目が合った。どうやらいま入って来たのは彼女らしい。
 どうしたらいいのかわからず、ふいと視線を逸らすと名前ちゃんは俺の目の前の席に座った。
「お疲れさまです」
 文字どおり、どこか疲れの漂う声。感じ悪いとはわかっていながらも、目線は合わせないままぶっきらぼうに俺もお疲れさまを云った。
「どうでした?」
 なにが、と訊かずともわかる。彼女は俺が新人だと思っているのだ。無理もない。
「……べつに。聴こえたでしょ、怒られてたの」
「はい、聴こえてました」
「うわ、恥ずかし」
「普段あんまり見られない佐助さんが見られて楽しかったです」
「はいはいそーですか……って、え?」
 まるで条件反射のように名前ちゃんのほうを見る。彼女はにこにこといつものように笑っていて、もしかして嵌められたのか、とようやく理解した。
 その瞬間、止まっていた時がようやく動き出したというか、やっと非現実的な夢から覚めたというか、大袈裟だけどそんな心地がした。
「なん、で。なんで、こんなことしたのさ」
「罰ですよ」
「罰?」
「遅刻した罰」
 店長がなんか仕掛けてやれっていうから、と悪びれる様子もなく名前ちゃんはそう口にした。いまの俺様の顔と云えばおそらく目も当てられないくらい間抜けだ。
「あ、焦ったあ……」
 とりあえずそうとだけ呟いてテーブルに突っ伏した。なんなんだって本当。びっくりさせないでよね。
「ごめんなさい」
 名前ちゃんが苦笑混じりに謝る。体勢は倒したまま顔だけ少し上げて彼女を見れば、へらりと少し気恥ずかしそうに笑ってあろうことかわしゃわしゃ俺の髪を掻き混ぜた。
「う、うわ、ちょっと」
「えへへ、佐助さんも可愛いとこあるじゃないですか」
「やめてってば……! ていうか慶次たちは? まさかグル?」
「そうですよ。皆さん演技お上手ですよね」
「……くっそ!」
 今日は珍しくさっさと帰ったけどそういうことだったのか。あいつらめ、覚えてろよ。
「もう……今度から逢うたびに『佐助さん大好きです』って云ってよね」
「いつも云ってるじゃないですか」
「今日はなかった」
「だから今日は」
「わかってるって! ……寂しかったんだよ、莫迦」
 我ながらすごく女々しいし情けない、と思う。でもこればっかりは仕方がなかった。そうだ。そうだった。更衣室を出たあと、最初に目を合わせたときの違和感はこれだったのだ。
「佐助さん、大好きです」
 いつもだったら挨拶の変わりとでもいうように名前ちゃんはそう云ってくれるのに。
「俺様も、名前ちゃん大好き」
 なんだかひどく照れくさくてふて腐れたように呟いた。




喪失のゆめ
20110401

四月莫迦企画にて
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