白いカーテンは穏やかに凪いでいた。彼女の眠るベッドには柔らかい陽のひかりが降りそそいでいた。それは初めて見る景色だった。

 名前ちゃんとの面会は大抵が夕方だった。日が短い季節になると、外はすでにまっ暗、なんてこともよくあった。
 初めて出逢ったのは1年と少し前。今はもうとっくに元気だが、一時期、大将が病に倒れて入院していた頃があった。見舞いに来た際、間違えて入ってしまったその隣の部屋が、苗字名前の部屋だったのだ。

 大将が退院してからも、俺はたびたび彼女のもとへ見舞いに来ては、とりとめもない話をした。
「私、ドナーが現れるのを待っているの」
 いつ退院するのか、と俺が訊いたときに、名前ちゃんはそう云っていた。もうずっとこうして待っているだけなのだという。
「きっと見つかるって。世界は名前ちゃんが思っているより、ずっと広いんだぜ」
「そうだよね……。こんな場所にずっと閉じこもっていたから、忘れちゃうところだったよ」
 幼い頃から病弱だったらしい彼女は、外の世界をまるで知らない。歳は俺よりいくつか下だが、小さな身体のせいか聞いた年齢よりも幼く感じる。反対に、言動だけはいつも大人びていた。本がこころの拠り所だという彼女は、ずいぶんと博識だ。
「一度でいいから地平線が見てみたいな」
「退院したら、何度だって俺様が見せてあげるよ」
「本当?」
「嘘はつかないって、云ったのは名前ちゃんだろ?」
「そうだった」
 嬉しそうに笑う名前ちゃんが、俺は好きだった。だから嘘はつかないし、つきたいとも思わない。彼女がそれを望んでいたから。
 俺は名前ちゃんに、よくその日にあった出来事なんかを話す。真田の旦那がお菓子を隠していただとか、伊達の旦那が右目の旦那に叱られていただとか。嘘偽りなど一切交えず話した。どんなに俺が格好悪くてもそのまま。それで名前ちゃんが笑ってくれるなら嬉しかった。
「幸村くんは元気なんだね。おじさまは元気?」
「大将? ピンピンしてるよ。毎日のように旦那と殴りあってる」
「わ、相変わらず」
「本当だよ、まったく」
 名前ちゃんも、旦那と大将のことはよく知っていた。部屋が隣である大将とは仲良く話していたようだし、大将の見舞いに来るときは旦那もいっしょだったから。
「佐助くんは、元気?」
 彼女は俺が帰る頃になると、決まってそう訊ねた。俺の答えも決まっていた。
「名前ちゃんに分けてあげたいくらい元気だよ」
 そう、と細められる瞳はやさしい。窓の外は夕闇が広がっているのに、この部屋だけはいつだって異様に白く煌めいていた。

 彼女の透明な息づかいが、淡い日だまりに零れる。明るいうちに逢いに来るのは、初めてだった。連絡を受けたのがついさっきで、急いで学校から駆けつけたのだ。なかなか呼吸が整わないのはきっとそのせい。
「さすけ、くん」
 ベッドの上、もう身体を起こすこともままならない名前ちゃんは、力なく俺へと手を伸ばした。慌てて近くまで駆けよって、その手を握る。ひどく冷たい、痩せた手。
 日に日に彼女が弱っていっていることを知らないわけではなかった。目に見えて衰弱していく彼女の、無理に作る笑顔があまりに苦しくて、顔を背けていただけだった。
「さいごに、逢えてよかった」
「なに云ってるのさ」
 笑ってみせる。本当、なに云ってんだって。
「気づいて、いたでしょう」
 名前ちゃんが呼吸をするたび、彼女の肺は軋んだような音を立てる。疲れきった笑顔に胸が痛んだ。
「俺様には、まだ、大丈夫そうに見える」
「そう、かなぁ」
「うん。平気だって」
「さすけくん、が、そう、云うなら、そう、なのかも」
 だって、佐助くんは嘘をつかないから。途切れとぎれになる声は苦しそうではあったが、どこまでも澄んで耳へと届いた。
「そうだよ。俺様は、嘘はつかない」
 零しながら、ゆっくりとした動作で彼女の頬に触れる。少し前までは、この指先はもっと柔らかさを伝えていたのに。色だって、いつもなら薄く桜色をのせていた。
 そうして俺は、たった今云ったことばを嘘に変えるのだ。数秒前の俺を嘘つきにする。
「……実は、さ。名前ちゃんに嬉しいお報せがあるんだ」
 視界が滲んだ。名前ちゃんの顔が、よく見えない。それでも、笑ってみせた。
「なあ、に?」
 潤んだ声が楽しそうに訊く。頬に添えた手が、濡れるのがわかった。
「ドナーが、見つかったんだ」
 彼女の反応を確かめるより先に、俺は続ける。
「さっき、部屋に入る前に先生から云われたんだよ。『苗字名前と適合するドナーが見つかりました』ってね。それを、俺様から名前ちゃんに伝えてほしいって云うんだ。名前ちゃんが喜ぶだろうから、って。まったく、先生も粋なことするよね」
 ほんのわずかでもいい。彼女の希望になれ。生きる力になれ。あと1分でもその命が続くなら、俺は何度だって俺を偽れる。
 堪えきれず瞬きをすると、ぽたぽたと彼女の頬に、首に、ベッドのシーツに、雫が落ちる。
「あと、もう少しなんだ。臓器が届けば、手術できるんだ」
「あり、がとう」
「……もうすぐだから、なあ、」
「ありが、と、さすけ、くん」
 ありがとう。しきりにそう繰り返す名前ちゃんはこころの底から嬉しそうにくしゃりと笑う。
「頼むよ、目を、閉じないでくれ」
「ねむ、い、の。すこし、ねか、せて」
「名前ちゃん!」
「ごめ……ね、ありが、と」
「名前ちゃん、名前、」
 すう、と落ち着いた深い呼吸のあと、彼女はその瞳をそっと閉じた。涙で頬に張りついた細く柔らかい髪を、指でやさしく退けてやる。
 好きだった。最後まで云えなかった。最後の最後で約束を破ってしまった俺に、そんなことを云う資格などなかった。それでも彼女は、ありがとうと云ってくれた。
「……おやすみ」
 もう開くことのない、花びらのような瞼に口づける。睫毛がいたずらに唇をくすぐった。

 溺れた視界に、窓から零れるひかりは不規則に屈折し、きらきらと目に映るすべてのものを輝かせる。
 白いカーテンは穏やかに凪いでいた。




いつか、地平線の向こうで
20110401

四月莫迦企画にて
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