半年ほど前からお付き合いをしている堅実でまじめな幸村くんは、それゆえに少し、わかりづらいところがある。私のことをどう思っているのだろうとか、どこを好いてくれているのだろうとか、気になることはたくさんあった。
 とは云え、本当のところは、いつもまっ直ぐな彼をちょっとからかってみたかっただけなのだ。

「私、本当は猿飛くんが好きなの」
 夕方の帰り道、戯れに私はそんなことを云ってみた。もちろん、まったくの嘘だ。私は幸村くんひとりがずっと好きで、いまの関係がとても幸せだと思っている。
「いま、なんと?」
 幸村くんの表情がどこか強ばったものになる。そんな彼に悪戯心はさらに動いて、私は至ってまじめな風を装いながら、もう一度くり返した。
「だから、私、本当は幸村くんじゃなくて猿飛くんが好きなの」
 上出来である。
 幸村くんの足がぴたりと止まった。うっかり数歩さきを行ってしまった私も、遅れて立ち止まった。振り返ると、幸村くんは俯いてしまっていた。
 いつだって直球で、ことばをそのままに受け取ってしまう彼には、いきすぎた嘘だっただろうか。若干反省しつつも様子を伺うと、幸村くんがなにか云った。
「え、なに……?」
 よく聞き取れなくて、私は首を傾げる。
「佐助はまだ、教室におったな」
 今度ははっきりと、そう聞こえた。普段の幸村くんからは想像もつかないような低く地を這うような声で。
「ゆ、幸村くん、」
「失礼致す」
 断るなり、幸村くんは来た道を走って戻っていく。あまりに予想外の行動に、私はしばらくその場を動けなかった。そして、少ししてその重大さに気がつくのだ。
 やってはいけないことだった。
 彼にだけは、ついてはいけない嘘だった。
 血の気が引く。けれど、次の瞬間には彼を追って走りだしていた。嫌な予感に、心臓はどくどくとその鼓動を早めていた。

 息を切らして階段を駆け上る。
 部活もとっくに終了している時刻であるため、生徒は少ない。異様なほど、校舎は静まり返っていた。
 自分の学年の階へと上がりきると、教室からは数人の男子生徒の声が聞こえてきた。教室の扉は、まるで力任せに開けてその反動で返ってきてしまったときのような、中途半端な開き方をしていた。
 聞き覚えのある声を耳が捉えた。相変わらずそれは、別人のもののようだった。
「ゆっ、幸村くん……!」
 目的の名を呼んで、教室にそのまま駆け込む。
 そこには、同じように息を切らした幸村くんと、青ざめた顔をした猿飛くんがいた。それから前田くんや長曾我部くんなんかが、やはり青くなった顔で遠巻きにふたりを見ていた。
「名前ちゃん! アンタ、一体旦那になに云ったわけ!?」
「えっ、そ、そのっ、」
「黙れ、佐助。俺を見ろ」
 しどろもどろな私の声を幸村くんが遮る。足がすくんだ。どうしよう。どうしたらいい。
「……赦さぬ」
「ちょっ、ちょっと、旦那……っ」
 猿飛くんの焦りひきつった声。それと同時に、机や椅子が倒れる凄まじい音。
「おい、幸村!」
 誰かが叫ぶ。なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。体勢を崩した猿飛くんに、馬乗りになって幸村くんが掴みかかる。そこでようやく、彼が猿飛くんを殴ったのだとわかった。
 幸村くんが二度目の拳を振り上げる。動け、動け私の足。
「だっ、だめっ、幸村くん……!」
 震える膝を叱咤して、半ば飛びかかるように幸村くんの広い背中を抱きしめた。彼が動けないように強く、ありったけの力をこめて。ぴたりと止まった幸村くんの腕に、猿飛くんが息をつく音がかすかに聴こえた。
「ごめん、ごめんね……っ。嘘なの。ぜんぶ、嘘だからっ、だから、もう」
「嘘……?」
 その声音は未だ冷たくて、私は必死に頷く。涙がぼろぼろ零れて、幸村くんの背中を濡らした。
「私が好きなのは、ずっと、幸村くんひとりだけだよ……っ」
「嘘、なのか」
 安堵したような声がすとんと落ちて、それといっしょに振り上げられていたままだったうでも、ゆっくりと降ろされる。
「佐助のことは、好きではないのだな」
 嗚咽が止まらなくて、頷くので精一杯だった。それでも幸村くんは、そうか、と小さな声で呟いた。
「よかった。……よかっ、たでござる」
 ぽたぽたと零れる涙を拭うこともせず、幸村くんはそう繰り返す。苦しかった。これほどに私を思ってくれている彼に、こころにもない嘘をついてしまったことを、ひどく後悔した。
「す、すまぬっ、佐助。痛かっただろう」
「まあ、痛くないわけないよね」
 幸村くんがどれほどの力で猿飛くんの頬を殴ったのかは、彼の口もとに滲む鮮烈な赤がすべて物語っていた。
「ごめん、ね、猿飛くん。ほんと、ごめ……っ」
「わかったから、ふたりとも降りてくれない?」
 呆れたように、猿飛くんが溜め息をつく。慌てて私は幸村くんから離れて、幸村くんも同じように慌てながら猿飛くんから離れた。
「まったく、大事な顔になんてことしてくれんのさ」
 軽口を叩きながらもよろよろと立ち上がる猿飛くんはひどく痛々しくて、どんなに謝っても謝り足りなかった。

 事情を詳しく話してもう一度ちゃんと謝り、猿飛くんとその場にいた前田くんたちにこっぴどく叱られたあと、とぼとぼとふたり校舎を出る。
 空はもう暗くなっていて、星まで瞬いていた。
「ごめんね。本当に、ごめんなさい」
「もう、嘘でもあのようなこと、云わないで下され」
「うん。もう、云わない」
「約束にござるぞ」
 柔らかく向けられた笑みに、深く頷く。
「次、かようなことを云うときは、本当に某を嫌いになったときにしてほしいのだ」
「じゃあ、きっと二度と云わないと思う」
 俯く私の手をとって、幸村くんは大きな手で優しく握ってくれた。温かな体温が心地よくて、また涙が出そうになる。
「……でも、びっくりした」
 すん、と鼻をすすって、目線は左右交互に出される自分の足に落としながら、ことばを続けた。
「幸村くんがあんな風に怒るところも、泣くところも、初めて見た」
「……無我夢中だったのだ。幻滅されたか?」
「ううん、逆。もっと好きになった」
 顔を上げる。幸村くんの目は驚いたように丸くなって私を見ていた。
「なにも知らなかったから、ちょっとだけ嬉しいの。猿飛くんには、申し訳ないと思ってる。もちろん、幸村くんにも。……でも、嬉しかった」
「名前殿……」
「親友殴るくらい、想ってくれてるんだなあとか、人目も気にせず泣いてくれるんだなあとか、ぜんぶ、初めて知ったから」
 ぎゅ、と繋がれた手がさら強く握られるのがわかった。幸村くんの表情は暗くてよくわからない。
「不安にさせて、しまっていたのだな」
「……そんなんじゃ、ないけど」
「すまぬ。もとより、某が名前殿をもっと信じておれば、このようなことにはならなかったのだ」
 すまぬ、と再度謝る彼に私は慌てて首を横に振った。
「幸村くんのせいじゃないよ。本当は、ちょっとからかうだけのつもりだった」
「それにしては、質が悪うござるな」
「ごめんなさい」
「もう、いいのだ」
 悪意はないにせよ残酷すぎた嘘を、寛容なこころで赦してくれる幸村くんに、私はどうしようもなく自分を情けなく思う。
 それでもそんな自分を嫌いになれないのは、幸村くんが私を好きと云ってくれるからだ。幸村くんが好きだと云うものを、嫌いにはなれない。
 理由なんて簡単で、私が幸村くんを好きだからだ。

 春を含んだ風が髪をさらう。
 幸村くんが、殴った右手がまだ痛い、と小さく笑った。




息を殺す修羅
20110401

四月莫迦企画にて
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