人の居ない廊下をひたひたと上履きを鳴らして歩く。夏休みの課題を教室のロッカーに置き忘れた私は、馬鹿な自分をこころの中で毒づきつつそれを取りに来た。

肩に掛けたぺしゃんこのスクールバックに問題集を1冊放り込む。この1冊のためだけにこの炎天下の中を歩いて来たのだ。帰ったら今度はこの問題集とにらめっこしなければならないのか。気が重い。

やっと夏休みだ! と喜んでいたのも最初だけで、日を追うごとに退屈になっていく。本当に勉強くらいしかやることが無いのだ。受験生の夏休みはいいものではなかった。

静かな教室を出る。がらりとドアを滑らす音がやけに廊下に響いた。足早にその場を後にする。


ふいに見慣れた人影が視界に入った。赤也だ。不機嫌な顔の彼は教室のドアを閉めるとこちらへ向かってくる。

ぱっと上げられた視線が交わった。どうやら彼のほうも私に気付いたらしく、不機嫌だった顔が一転して嬉しそうな笑顔に変わった。

「先輩!」

タタッ、と従順な子犬さながら走り寄ってくる赤也に笑みを零さずにはいられない。

ただ不思議に思うのは彼が制服姿だということと、違う教室から出てきたということだ。どう見ても部活ではない。

「赤也、どうしたの?」
「それが補習なんスよ」
「英語?」
「せーかい」

面倒臭そうに出てきた教室をちらりと見遣って、赤也はため息をついた。嫌いな英語を無理やり勉強させられたからか、疲れが見える。

「まったく、こっちは部活があるっていうのに」
「大会、近いんじゃなかったっけ」
「そうなんスよ。でもこんな成績じゃ部活になんて出させられません! とか何とか云って」

英語教室の似てないモノマネをしながらぶすくれる赤也に私は軽く吹き出した。

「お陰で真田部長にも鉄拳くらうし」
「はは、自業自得だ」
「ひっでえ」

先輩だけは俺の味方だと思ってたのに! とふざける赤也は、しかし思い出したようにはっとして私を見た。

「もしかして先輩も補習っスか?」
「まさか」
「ですよね……」
「私は忘れ物とりに来ただけ」
「忘れ物?」
「課題。ばかでしょう?」
「補習のが馬鹿っスよ」

苦笑する私に、赤也は拗ねたふりをする。こういう彼の子供っぽいところが私はひどく好きだ。それでいてふとした瞬間にもの凄くかっこいい男の子になるのだから侮れない。

「はい、よく頑張りました」

わしゃわしゃと黒い猫っ毛を撫でてやれば、気持ちいいのか、これまた猫のように目を細めた。

「しかもこれから部活なんスよ」
「暑いからテニス部みたいな運動部は大変だね」
「ほんと、焦げちゃいそうっス」
「夏休みが明けた頃にはみんな焼けて黒くなってるんだろうね」

赤也も真っ黒になるね。そう云って笑うと赤也はぱちくりと瞬きをした。

「もしかして先輩、夏休み明けるまで逢ってくれないんスか?」

驚いたと云わんばかりに大きな目をさらに大きくして赤也が私に問う。

「え? だってテニス部、ほとんど休みなくて忙しいでしょ」
「練習とか大会とか、見に来て下さいよ」
「ええー……」

本音を云うと暑いからあまり外に出たくないのだ。焼けたくもない。只でさえテニスなんて特に太陽の下でやるスポーツなのに。

それに、赤也は2年生だから良いけれど、私は受験生だ。いくらエスカレーター式の学校と云えど勉強しなければ落ちる。まあ、部活で優秀な成績を残す彼の先輩たちは例外だろうけど。……そう云う人たちに限って頭も良いのだから神様は不公平だ。

「先輩は!」
「ん?」
「先輩は、俺と逢わなくても平気なのかよ!」

赤也の口調が荒くなった。心臓がびくりと跳ねて身体が動かなくなった。云われて初めて、私はいま赤也と話していることで自身が浮き足立っていたことを知ったのだ。

ぱちくり。今度は私が瞬きを繰り返す。

「平気じゃ、ないかも」

夏休みがつまらないと感じたのは毎日逢っていた彼に逢えなくなったからだ。

悲しそうに私を睨む赤也に、出来るだけ丁寧に云った。

「私、いま赤也と久しぶりに話してるのが嬉しくて仕方ない」
「本当っスか……?」
「うん、毎日逢いたい」
「暑くても?」

疑り深く赤也が私を覗き込む。若干、上目遣いのそれに私のハートは鋭く射抜かれたのである。

「練習、見に来るよ。差し入れも持ってくる。ていうか、赤也の試合だったらどんな炎天下でも見ていられる気がしてきた……!」
「せ、先輩……!」

感極まったというような声とともに赤也が抱きついてきた。

「うわ、赤也、暑い」
「先輩! じゃあ俺待ってますね! 俺も先輩が応援してくれんなら暑い中の練習だって英語の補習だって頑張れる気がしてきた!」
「が、頑張れ! 赤也ならできる!」

これは是非頑張ってテニスの試合を勝ち抜いて欲しい。それから次回の試験ではさすがに赤点を回避して貰わねば。

ぎゅううと一層赤也が私を強く抱きしめた。それから、

「先輩大好きっス!」

満面の笑顔でそう云われては暑くても何でも私も抱きしめ返さずにはいられなかった。





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20100724
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