あくびをひとつ噛み殺す。ふらつく足をなんとか持っていって、待ちわびた大きなダブルベッドにダイブした。もちろん、歯磨きだけはしっかり終えて。

どんなに眠くともこれだけは欠かせない。今日のようにプリンなんて食べた日の夜は特に。あとあと虫歯になって泣くのは他でもない俺なのだ、侮れぬ。

微睡む意識の中、片手に掴んだままの携帯電話で時刻を確認した。すでに午前零時を過ぎている。

名前はまだ、帰って来ないのか。

書き置きには確か、今日は友達と遊ぶから夕飯は適当に自分で済ましてくれ、日が変わる前には必ず帰る、というようなことが並べてあったはずなのだが。

守れぬのなら初めから書かなければいいものを、と自分で自分ををホラ吹きに仕立て上げている名前に呆れながらも、久しぶりに友人と遊ぶのだから無理もないかとこころの中で苦笑した。

課題のレポートが間に合わぬと2日前まであくせくしていたのは彼女も俺も同じだったから。

名前と同棲を始めたのは3ヶ月ほど前からで、好いている者と衣食住を共にする幸せを未熟ながらも知った。お互いまだ学生な上に家賃も半分ずつ出しているため、同棲と云うよりはルームシェアと云ったほうが近いのかもしれないが。

ゆらゆらとしつこく瞼に貼り付く睡魔に、俺はついに諦めてあくびを漏らした。バイトで疲れたこの身体には睡魔に抗う術などもうないらしい。力の抜けた手から携帯電話が滑り落ちる。なんとか布団だけは首までたぐりよせて瞳を暗闇に閉ざした。

今夜は昨日までとは打って変わって秋らしく冷え込んでいる。



意識の向こうで何か物音がした。名前が帰ってきたのかもしれない。しかし、もう身体を起こしておかえりを云ってやる気力は持ち合わせておらず、少し身じろぎをするにとどまった。

「幸村!」

再び安眠へと潜り込もうとしたところで、俺の名を呼ぶ声がおぼろげに響いた。なんだ、と呟いた掠れ声は、おそらくリビングに居るのであろう彼女に聴こえるはずもなく、仕方なく身を起こす。

凄まじい音を立てて寝室の扉が開かれる。何事だとなかなか開かない目を擦れば、ぼやけた視界の中で名前が俺を睨んでいた。

いや、実際には部屋も暗く表情はよく判らないのだが、とにかく怒っていることには間違いなさそうだ。

「……今、何時だと」
「また私のデザート食べた!」

デザート、というその単語に浮かんだのは寝る前に食べたプリン。あれは名前のだったのかとぼんやり思う。ふたり揃って俺たちは生粋の甘味好きなのだ。

すると突然左の頬にびりりとした痛みが走った。

「いっ……!」
「目は覚めた?」
「なっ、なにをするのだ! 離せ!」
「だって寝てるから」
「本気で摘ままなくても良かろう!」

頬をきりきりと摘まみ、さらには捻ってくる容赦のない手を叩き落とす。あまりの痛さに目に涙が浮かんだ。ビンタでもくらうほうがよほどマシだ。

「くだらぬことで一々起こすな」
「くだらないって……! 人のもの勝手に食べてごめんなさいも云えないの!」
「たかがプリンひとつくらいでムキになる神経が判らぬ」
「なっ、自分だってお団子食べられたとき怒ったくせに!」
「お前と違って手を出したりはしなかったはずだ。俺のこころは名前のように狭くはないのでな」
「頑固な幸村に云われたくない! 脳みそまで筋肉で硬いんじゃないの!」

噛みつかん勢いの名前に、睡眠を妨害され気が立っていた俺はついかっとなって声を荒げた。

「名前こそ自分で云ったことも守れぬなど3歩で忘れる鶏と変わらぬではないか!」
「なんの話してんのよ馬鹿!」
「日が変わらぬうちに帰ると云ったのはお前だろう阿呆!」

売りことばに買いことば。まるで幼子の云い合いだ。

「お前は遊んでいたかもしれぬが俺はバイトで疲れているのだ」

吐き捨てるように云って、すぐに後悔した。俺を睨みつける瞳は今にも零れ落ちそうな涙をいっぱいに溜めていて。

これは、一番云ってはいけなかった。

「もう、いい」

静かに呟いた名前は、さっきの荒々しさとは裏腹に力無く寝室のドアを閉めて出ていってしまう。

それが余計に俺を焦らせた。

レポートも、バイトも、お互いに頑張っていたはずではないか。それに加えていつも家事までこなしてくれていた彼女にとって、本当の意味で久々の休日だったというのに。

どんな顔をして謝ればいいのか。今は何を云っても云い訳がましいような気がしてことばが浮かばない。

俺は謝り方まで忘れてしまったのかと、不甲斐ない自分に溜め息をつく。

もう、目はすっかり冴えてしまっていた。



数時間、ひたすら謝罪のことばが頭の中をぐるぐると回っていた。ごろりとひとつ寝返りを打つ。

この隣では、いつもだったら名前が寝ているはずだった。

そういえば、名前は何をしているのだろうか。彼女のことだから出て行って友達の家にでも転がり込んでいるかもしれない。

大声で云い合いをしたせいか、もしくは謝ることが億劫なせいか、とにかく喉が砂漠のように渇いている。ああ、それとも寒くて乾燥しているからか。

寝室からキッチンへ降りて、冷蔵庫を開ける。茶をとるはずだった俺の手はそこでぴたりと止まった。

プリンなら、もうひとつあるではないか。パッケージをよく見れば行列ができるような有名な店のものだったのだと始めて気付く。

疑問を抱えたまま茶を淹れ、そのままリビングに出たところで俺はぎょっと目を剥いた。

なぜ、ソファなんかで。

急いでグラスをテーブルに置いて、寝室へ戻り毛布を引っ張ってくる。

「……風邪でも引いたらどうするのだ」

まるでウサギのように丸まっている名前の身体にそれを掛けてやれば、よほど寒かったのかもぞもぞと口元まで潜ってしまった。情けなくも心臓が飛び上がったのは云うまでもない。

やがて再び聴こえてきた規則的な呼吸に、深く眠っているのだと判る。ほっと胸を撫で下ろして茶を一気に仰げば、急激に流れ込んだ冷たさに肌が粟立った。

毛布からかろうじて出ている目元が少し赤い。そっと指でなぞれば、こころなしか熱を持っているように感じた。

「……泣いた、のか」

喉は潤ったはずなのにそこから出た声は思ったよりも低く、掠れていて。また、彼女が寝ていたとしてもなかなか謝罪のことばは降りてきてくれない。

今は、何時だろうか。そろそろ空が明るんでくるくらいだとは思うが、明確には判らない。

ただ静かで薄暗い部屋は淡く閉ざされていて水底にいるような気分になる。

あくびをこぼす。こぽりと泡沫が音を立てたような錯覚に、自分がもう夢うつつなのだと悟った。名前が隣に居なければ俺は安心して眠ることも出来ぬらしい。

再び吸い込んだ心地好い眠気に、誘われるまま瞼を落とした。



ふ、と何の前触れもなしに意識が浮上した。目を開ければソファにはもう誰もおらず、名前に掛けたはずの毛布は俺に掛けられていた。

目が覚めたときに愛しい人が隣にいる。それがどんなに尊いことなのか、毎日それが当たり前になっていて俺の感覚はきっと麻痺していた。

「名前っ」

痛む喉でその名前を呼ぶ。やけに大きく耳に響いたのはきっと気のせいなどではない。

「……おはよ、幸村」

キッチンから投げられた声もまた、掠れていてどこか痛々しかった。

毛布から抜け出して、触れた冷気に身震いする。名前は朝食を作ってくれているらしかった。

「お、おはよう」
「朝ごはん、すぐ出来るから」
「うむ……かたじけない」

なぜ、謝罪のことばが出てこぬ。気恥ずかしいだとか緊張するだとか、それでは逃げているだけではないか。

「そんなところにつっ立ってないで、座って待ってたら」

どことなく素っ気ない物云いに、ちくりと胸が痛んだ。別れを切り出されてからでは遅いのだぞ、と自分を叱咤する。

「名前」
「なに」
「そ、その……」
「なに、はっきり云って」
「その、だな」

やはり、喉が痛い。風邪を引いたのは俺のほうか。

「……昨夜は、すまなかった」

からん、と何かが音を立てて落ちた。

「あつ……っ」
「な、なにをしておるのだ」
「足に、落とした」

スープをかき混ぜていたおたまを足の上に落としたらしい。座り込む名前をしり目に俺は急いで金属製のそれを拾い上げシンクに放り込んだ。冷凍庫から保冷剤を出して赤くなってしまった彼女の素足にあてがう。

「ゆ、幸村」
「あまり、見ないでくれ」
「……え?」
「情けない顔をしているだろうから」

名前の顔を見ることも出来ず、空いているほうの手で彼女の双眸を覆った。その中で瞬きがされるたび、睫毛が手のひらを掠める。

「……あの、幸村」
「なんだ」
「私も、ごめんなさい。あと、ありがとう」
「……いや、いいのだ」

簡単なことだった。たったひと言でこんなにも冷えたこころに温かさを取り戻せたのだ。

「たくさん、無神経なことを云ってしまったな。悪かった」

ふるふると名前が首を振る。手のひらが少しだけ温かな雫で濡れた。

「しかし、プリンならもうひとつあったぞ」
「違う、の」
「何が違うのだ?」
「幸村と、いっしょに食べよう、って思ってて」
「そう、だったのか」
「私、は、友達と遊ぶのも、もちろん楽しみにしてたけど、幸村と、ゆっくり話すのだって、大事、なんだよ」
「……すまなかったな」
「それなのに、勝手に、食べちゃう、から」

ついにはしゃくり上げて泣きはじめてしまった名前に、どうしようもなく愛しさが込み上げる。

そういえば、ふたりとも課題レポートに追われている期間は部屋に籠りきりで、ちゃんと話もしていなかった。

「ならば、今日は昼から出掛けよう。夕飯も、どこか美味いところに連れていく」
「家が、いい」
「……そうか?」
「ふたりで、毛布にくるまってあったまってたい」
「それも、そうだな」

まずは朝食を頂くか、と名前の目に被せていた手を退けようとすると、慌てて彼女が制止した。自ら俺の手を押しつけるようにその細い手で。

「ど、どうしたのだ?」
「……今、顔ひどい、から」
「そんなものはお互い様だ」
「だって、涙、止まらなっ」

もう片方の保冷剤をあてていた手で、名前の手に触れる。あまりの冷たさに驚いたのか、びくりと引っ込んだ。自分の手も離せば、潤んだふたつの瞳と出逢う。

「大丈夫だ。泣き顔も可愛らしい」

濡れた瞼にキスを落とせば、ばか、と小さな照れ隠しが聴こえた。




大切をおしえて
めぐりさまリクエスト「喧嘩してなかなか謝れない真田」より。


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20100926
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