自室で執務を片付けていると、襖の向こう側でトタトタと急ぐ足音が聴こえてきた。小走りで廊下を踏み鳴らす姿が容易に想像できる。
昨日は甲斐から信濃へ渡ったばかりでお疲れの様子だった名前殿は、何か良いことでもあったのか、今日はやけに嬉しそうだ。
それは喜ばしい限りなのだが、どこか浮かれ気味の足元が危なっかしくて見ていられぬのも事実。
「幸村!」
スパン、と軽快に襖が開かれ、案の定入って来たのは名前殿で。俺は机上の半紙と睨み合ったまま声を掛けた。
「如何なされたのだ、名前殿」
「見て、佐助が猫をくれたの」
振り向けば、彼女の腕の中で小さな仔猫が丸まっていた。大きな金色の瞳が俺を映す。
「おお、なんと」
「すっかり懐かれてしまったから、良かったら世話をしてくれって」
「それはよう御座った」
一体なにをしておるのだ、佐助は。内心毒づきながらも彼女の話に相槌を打つ。
「だから今日はそんなにも嬉しそうなので御座るな」
「あら、それだけじゃないわ」
「他に何か?」
「だって、久しぶりに上田へ来たんだもの」
名前殿が仔猫をあやしながら弾むように云う。
「しかし、姫君があまり城を離れては……」
「つれないのね。幸村が最近忙しくて甲斐へ来られないから、私が出向いたのに」
む、としかめ面がこちらに向く。これではまるで俺が悪いみたいではないか。
それでも、彼女は次の瞬間には悪戯を企む子どものように、まあいいわと笑った。
「少し休憩にしたら? いっしょにお茶でも飲みましょうよ」
「……かたじけない」
自分も緩く笑みをこぼして、筆をいったん硯へと置いた。
お茶を淹れてくるから縁側で待っていて。そう仔猫を抱えたまま部屋を出てきたり、なかなか名前殿が戻ってくる気配はない。
何か手惑うことがあったのだろうか、と自分とそう歳も変わらぬ彼女を案じる。やはり様子を見に行こう。
「名前殿、」
厨を覗くも彼女の姿はそこにはなく、数人の女中が行き来しているのみだった。
「すまぬ。名前殿を見なかったか」
「甲斐の姫様ですか? こちらには来ていないようですが」
首を傾げる女中に礼を云って、俺は慌てて部屋までの道を引き返した。もう何度もこの上田城には来ているし、迷うことはないと思うのだが。
忙しなく視線を巡らせていると、庭のほうから何やら切迫詰まった声が聴こえた。急いで出て見れば、あぁ、なんということか。
名前殿は木登りをしていらっしゃった。
着物の裾を巻くし上げ、白い足をはしたなくも晒している姿は非常に目のやり場に困るのだが、そうも云ってられぬ。
「何をなされているのだ、名前殿! 危のう御座るぞ!」
上を見上げ叫べば、怯えたような彼女の瞳とかち合った。
「ゆ、幸村。猫が、」
震える声に、どうして彼女がこんなことをしているのかやっと理解する。仔猫が木に登ったきり降りてこなくなってしまったのだろう。
細い枝の先にちょこんと乗っている仔猫もまた、可哀想なくらい震えてしまっていた。
「名前殿、一度降りてきて下され! さすれば某が、」
「ううん。もうちょっとだから……」
「しかしっ」
彼女が手を伸ばしたその時、ぎしりと軋んだかと思えば、次の瞬間ついに枝は重みに耐えられずに折れた。さああっと頭から血の気が引く。
「う、わっ」
名前殿の小さな身体がバキバキと小枝を折りながら葉とともに落下する。地面に叩きつけられてしまう前にと真下へ駆け寄り手を伸ばした。
なんとかして彼女を受け止め、この腕に収める。自分の心臓がばくばくと緊張と恐怖で暴れていた。
視界の端ですとん、と身軽に着地を決めた仔猫を確認しつつ、はあ、と詰まった息を吐く。
そうとう怖かったのか、腕の中の身体もまた小刻みに震えていた。
「……ゆき、」
「馬鹿者!」
びくりと彼女の肩が跳ねた。ぎゅうときつく抱きしめればふたり分の心音が聴こえてくる。
「……怪我でもしたらっ、どうするのだ!」
「ご、ごめ、なさ……」
「どれだけ、どれだけ心配したと……!」
名前殿の身体が強ばっていることに気付く。いきなり大声を出したのだ、無理もない。ましてや、俺が彼女にこうして怒るのはおそらく初めてだ。
「何故、ご自分でどうにかしようとする前に、この幸村を頼って下さらない」
極力冷静な声音で告げれば、安堵からか名前殿は俺の肩口で泣き出してしまったらしい。鳥がさえずるようなか細く小さい嗚咽が耳に届いた。
「某では、頼りないか」
ふるふると額を肩に押し付けたままの彼女が左右に首を振る。首筋に柔らかい髪が触れてくすぐったいのだが、あいにく身動きがとれない。
「……迷惑、掛けたく、なくて」
「迷惑などとは思わぬ」
出来る限り優しく髪を撫でてやれば、やっとその顔が上がった。涙に濡れた瞳が俺を見据える。
「名前殿のこのお身体に傷を作られるほうが困るのだ」
「……そう、ね。傷なんて残した日には、きっと何処にも嫁げないわ」
「それなら、心配は要りませぬ」
「何を根拠に……」
名前殿が怪訝そうな口調で問う。だが、これだけは絶対的な自信があるのだから致し方ない。
「名前殿は某が貰い受けると決めておる故」
云って、顔が熱くなるのが判る。こんな姿を見られては格好が付かないと、彼女の額を再度自分の肩口に押し付けた。
「お慕いしております、名前殿」
「本当、に?」
「某、嘘は吐いたことは御座らぬ」
「そう、そうだったわ」
「だからもう、こんなにも肝の冷える思い、させないで下され」
ぎゅ、と細い腕が背中にまわされるとともに、彼女が頷いた。
仕切り直しにお茶と致そうか、と小さな手をとれば、心配そうに事の経緯を見守っていた仔猫が嬉しそうに鳴いた。
どうかこの目の届くところに
桂さまからのリクエスト「焦りながら『馬鹿者』と叱る真田(要約)」より。
十万打感謝
20100908